【レポート】2025年3月9日 三浦綾子文学講演礼拝

礼拝

礼拝時、動画を撮り忘れてしまったため、同じ内容の公演会の動画を公開致します。

ひつじが丘の登場人物であり、牧師の娘、奈緒実は両親の反対を押し切って駆け落ちし、キリスト教の神を信じる信仰が弱くなっていきますが、様々な困難から愛することを考えさせられ、また両親の元へ戻されます。愛するということは赦し続けること、そして他人を愛するために自分を知ることから始めていくこと。神様は何度でも、人を介して神の愛を示し、弱くなった信仰心を回復させて下さるということが分かり、感謝でした。

レジュメ

三浦綾子文学講座 「ひつじが丘」

1、 「ひつじが丘」とは

①「氷点」に続いて書かれた第2作目の作品。

・連載 1965年8月~1966年12月(主婦の友)

・単行本発行 1966年(昭和41年)12月10日(主婦の友社)

②主題は「愛」

「愛とはゆるすことだよ、相手を生かすことだよ・・・つらくよみがえる父母の言葉。良一への失望を胸に、奈緒実は愛することのむずかしさをかみしめる。北国の春にリラ高女を巣立った娘たちの哀歓の日々に、さまざまの愛が芽生え、破局が訪れる。真実の生きかたを真正面から見すえて感動をよぶ「愛」の物語。 」(文庫本裏)

③続氷点的作品

・罪のゆるしの問題を取り扱っている。

・「氷点」の初めが「ひつじが丘」の終わりとつながっている。

「風は全くない。東の空に入道雲が、高く陽に輝いて、つくりつけたように動かない。ストローブ松の林の陰が、くっきりと地に濃く短かかった。その影が生あるもののように、くろぐろと不気味に息づいて見える。」(「氷点」の初め)

「竹山は、奈緒実がみつめている遠くの白い雲に視線を転じた。雲は陽に輝いて、きらりと一点光っていた。」(「ひつじが丘」の終わり)

2、「ひつじが丘」のメッセージ

①教会とは

・人生につまずいて転んだ人が来る所

「「オイッ、これをどうしてくれるんだ?」男は耕介の顔を見るなり、汚ない手をニュッとさし出した。教会の前を通ったら大きな石につまずいて転んだ。さあどうしてくれるのかというのである。」

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

・本当の自分を見つける所

「「年はいくつだね」・・・「おかあさんの名は何というんだね」」「今こうしてひつじが丘に来て、沢山の羊を見ていますと、ストレイシープという言葉が思い出されてなりませんの」

「ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。」(ルカ19:2)

「イエスは、・・・彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。」」(同19:5)

「人の子は失われた人を捜して救うために来たのです。」(同19:10)

・本当に必要なものが得られる所

「金がほしいのだろう。しかし金や物なんてどうせすぐなくなってしまうよ」

「ところで、わたしの家には決してなくならない宝物がある。まあ入り給え」

「耕介は聖書をやるつもりだったらしい。」

「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」(使徒3:6)

「あなたの御口のおしえは、私にとって、幾千の金銀にまさるものです。」(詩篇119:72)

②知るべきこと

・愛するということ

「 「奈緒実。人を愛するって、どんなことか知っているのかね」・・・「愛するとはね、相手を生かすことですよ」愛子が助け舟を出した。「そうだよ。お前ははたして、杉原君を生かすことができるかね。おとうさんがにらんだところでは、あの人間を生かすということは、ひどく骨の折れることだと思うがね。とても奈緒実には生かしきれまいな。へたをするところしてしまうことになる。」「まあ、ひどいわ、おとうさん。わたしだって、人一人ぐらい愛することができるわ」「そうかね。愛するとは、ゆるすことでもあるんだよ。一度や二度ゆるすことではないよ。ゆるしつづけることだ。杉原君をお前はゆるしきれるかね」 」

・男性

「奈緒実の肉体は、いまだかつて、情欲というものを知ったことがない。良一と二人の部屋に眠るということが、即ち良一にすべてを、今すぐゆるしていいということではなかった。つまり奈緒実は、男と女が一つ部屋に寝るということの意味を、明確には知っていなかったのだ。それが即ち、男から見て、どういうことであるかを、奈緒実は知らなかった。男と同じ部屋でも無事に幾夜でも過ごせると思っている。多くの未婚の女性と同じように、奈緒実もそう思っていたのである。(馬鹿だったわ。男というものを、どれほども知らなかったのだもの)」

・自分

「(思いやる前に、今夜も遅いとか、もっとやさしくものを言えないのかとか、わたしはいつも咎めていた)「女は女房になると鬼になる」と言った人があったと、奈緒実は苦笑した。良一が慰めてほしいと思っている時に、自分の視線はきびしく良一に注がれていたのではないか、いたわりのない難詰する表情は、感じやすい良一の心を傷つけていたのではないか。と、奈緒実はその時のけわしい自分の表情を想像して、まさしく鬼だとぞっとした。そのことに、今まで一度も気づいたことのないのに、奈緒実は思い及んだ。「他の人に対しては忍耐深く寛大であれ。あなたも他人が耐え忍ばねばならぬようなものを、事実において多く持っているからである」とイミタチオ・クチスチに書いてあったような気がする。とにかく、誰も自分の姿には気づかないものだと奈緒実は思った。自分だけが絶対善であり正であるかのように思い勝ちであることを反省した。人を理解するためには自分自身を先ず正しく理解しなければならない。自分を知ることが人を愛するはじめだと奈緒実はうなずいた。 」

「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタイ22:39)

・イエスの愛

「ふと、奈緒実はオルガンの音を聞いたように思って立ちどまった。「いつくしみふかき 友なるイエスは・・・」なつかしい讃美歌の曲である。暗い街角に立って、奈緒実はあたりを見まわした。よく見るとすぐそばに、白い教会の建物があった。 ・・・ 「世の友 われらを 捨てさる時も・・・」オルガンを聞きながら奈緒実は讃美歌の歌詞を思い出していた。奈緒実自身、世のすべての人々に捨てさられたような淋しさで、こらえきれずに涙があふれた。」

「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(へブル13:5)

・親の愛

「(おとうさん、奈緒実です)奈緒実は玄関の戸をそっと手にかけてみた。錠をおろしているとばかり思った戸は、思いがけなくからりと軽く開いた。ハッと身をすくめた時、書斎のドアがすばやく開いて、耕介が大きな体をあらわした。「おお、奈緒実じゃないか」なつかしさにあふれた声と共に、耕介はたびはだしのまま走りよった。」

「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」(ルカ15:20)