10時~ 礼拝・講演
参加者のコメント
レジュメ
三浦綾子文学講座 「千利休とその妻たち」①
1、 「千利休とその妻たち」とは
第33番目の作品で、「細川ガラシャ夫人」「天の梯子」に続いて主婦の友に連載された作品である。
・連載 1978年1月~1980年3月
・単行本発行 1980年(昭和55年)3月26日(主婦の友社)
2、 「千利休とその妻たち」のメッセージ
①序章から
・状況は突然変わるもの
「風が変わったのか、潮鳴りが不意に家の中までひびいて来た。」(「鼓の音」一)
「つい、この間までは、聚楽第において、天下の政情に進言する身であった。それが今では、門外に一歩も出ることのかなわぬ身となった。」(「放逐」二)
・私たちの命の終わり
「土蔵の傍らの桜が、濡れ縁にその花びらを散らした。」(「鼓の音」一)
「花にはまだ命があったとしても、一夜の嵐に散ることもある。覚悟だけはしておくがよい」(「放逐」二)
「人間には、一度死ぬこと・・・が定まっている」(へブル9:27)
・死の美しさ
「門を入った右手の、この家の庭にも太い桜の木があった。花びらが地面にまばらに散って、それがいかにもあでやかである。」(「雷鳴」二)
「おりきは鮮血に染まった利休の遺体に小袖をかけた。」(「雷鳴」二)
「主の聖徒たちの死は主の目に尊い。」(詩篇116:15)
②本文から
・益になるとは
「紹鴎は、入門を乞う宗易に・・・言った。「十六歳の時に、既に茶会をひらいたとの評判は聞いておる。その評判はおそらく貴方には害にこそなれ、何の益にもならなかったであろうな。」」(「鼓の音」一)
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。」(ローマ8:28,29)
・高慢
「ルイス・フロイスが、「堺の市民の傲慢で気位の高いことは非常なものである」と、その『日本史』に記してあるほどに、誇り高い堺市民であった。そしてその気質は、誰にもまして宗易の血にも流れていた。」(「鼓の音」二)
・劣等感
「その経済力のある商人たちも、実は拭っても拭っても拭い切れない武将たちへの羨望があった。それは権力を持ち得る者に対する羨望であった。幾ら万金を積んだところで、商人には権力を買うことだけはできない。その口惜しさがどの商人の胸にもあった。そしてそれは、宗易の心の中にもあった。妻の言葉が苦かったのは、胸の奥におしかくしている劣等感を衝く言葉でもあったからだ。」(「鼓の音」二)
・人間の価
「松永様、おりきは、平蜘蛛の釜の価しかない女でござりますか」(「秘蔵の釜」三)
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛しいている。だからわたしは人をあなたの代わりにし、」 (イザヤ43:4)
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
・人に関心を持たせるもの
「もっとも、教えそのものについては関心はなかったが、宗易はその宣教師たちの熱心さには関心を持っていた。(南蛮よりも尚遠い国から、はるばると海を渡って・・・不思議なことじゃ)宗易はそう思う。・・・(自分は茶の湯を伝えるために、他国まで出かけることができるであろうか)ふっと宗易はそう思った。そして、ガスパル・ビレラ神父の話を、一度聞いてみてもいいと思った。いや、話を聞くというよりも、会ってみたいと思ったのである。」(「ガスパル・ビレラ神父」一)
・宗教は己を見るところから始まる。
「茶は宗教じゃ。宗教は先ず、己を見る所から始まる」(「ガスパル・ビレラ神父」二)
「「父上、与之介には、座禅が苦手でござります」・・・「座禅は苦手・・・とそう言えたお前は、それでよいのじゃ」 「?」「それが自己を見るということよ」・・・「父上、父上は、どんなことを考えておられました?」・・・「与之介、それそれ、それがつまり、自分を見ずに、他人を見るということじゃ。さてはそなた、己がことより、この父の胸のうちを、あれこれと憶測していたのじゃな」・・・「ま、そんなものじゃ。人間という者はな。このわしにしても、同じことよ。自己を見極めるということなどは、これは万に一人も、いや、億に一人もできまいて」・・・「与之介、人間なかなか己を正しく見ることは出来ぬものじゃ。自分という者が、どうしても自分にとっては大きく見える。特にわしなどは、自分がひとかどの者に思えてならぬ」」(同)
・自らの刀
「信長は鋭く遮り、「そちは、一介の商人などではない。そうじゃ。そちから受ける感じは、名刀を見た時に受ける感じに似ている」「名刀?でござりまするか」「うむ、まさしく名刀じゃ。そちの中には、すっぱりと人間を斬り裂くものがある。それは一体何じゃ」「さあ・・・」・・・「そなたは、わしの茶頭にならぬか」「茶頭にござりまするか」・・・「よい! 返事は不要じゃ。そちら応と言っても、否と言っても、今のわしには、そちは目ざわりじゃ」」(「名物狩り」二)
・刀を茶室から追放したい
「わしは茶室に刀などという殺伐は道具を、持ち込ませたくはないのだ。なぜ茶室に刀が必要なのか。刀で茶が点てられようか。刀を茶杓の代わりに使うことができようか。茶は宗教と言い切るためには、刀は持ち込んではならぬのじゃ・・・わしは茶室を信じ合える者たち、睦び合える者たちの場としたいのじゃ。わかるか山上」(「名物狩り」二)
・悲しみが丸みを与える
「信長は、初めて見た時の宗易にはなかった丸みをその中に見た。(はてな? 宗易は変わった)・・・この年の春、宗易はおりきとの間の第一子を、三歳で失っていた。・・・宗易は初めて、子を失った悲しみを知った。その悲しみが、宗易の茶の湯を深めたのである。」(「妙光寺」一)
「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」(ローマ5:3,4)
・茶の湯の第一の心がけ
「信長は宗易に、こう尋ねた。「のう宗易、茶の湯の第一の心がけを、そちはどう思うておる」宗易は即座に答えた。「恐れながら、上には粗相ありとも、下には律儀に信あるべし、と存じまするが」・・・「ふん」・・・ 「何と茶の湯は、キリシタンに似ておるではないか」」(「妙光寺」一)
「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油を注ぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。」(イザヤ61:1)