礼拝
レジュメ
三浦綾子文学講座 「旧約聖書入門」②
1、歴史書からのメッセージ
①律法
「以上、十戒の第四までは、前述のとおり神に対する人間の姿勢、あり方が示されている。まず神の前に真実であること、それが律法の根源なのだ。神の前に真実でない者が、人と人との約束やきまり、戒律を守ることができようか。わたしたちは、神を信じ、行ない正しく生きようとしている人とならば、大事な約束も安心してできるはずである。・・・神を聖とし、神を畏れ、神の前に真実であって、はじめて、「父と母を敬え」「殺すな」「姦淫するな」等々のおきても、全うされるのではないか。モーセはこの十戒をもとに、多くの律法を定めたが、とにかく、まず第一に神に対するあり方が啓示されたのは、すばらしいことであった。それゆえに、この「十戒」は、おそらく永遠に光芒を放つにちがいない。」(九 律法・十戒)
「「汝の父母を敬え」が、神と人間との関係につづいて出されているのは意味深い。自分の親を受け入れることのできない人間が、他の人間を正しく受け入れられるはずがない。と言えば、いや、親を受け入れることはできないが、友人なら受け入れることができると、人によって言うかもしれない。しかし三浦綾子文学講座 「旧約聖書入門」②
1、歴史書からのメッセージ
①律法
「以上、十戒の第四までは、前述のとおり神に対する人間の姿勢、あり方が示されている。まず神の前に真実であること、それが律法の根源なのだ。神の前に真実でない者が、人と人との約束やきまり、戒律を守ることができようか。わたしたちは、神を信じ、行ない正しく生きようとしている人とならば、大事な約束も安心してできるはずである。・・・神を聖とし、神を畏れ、神の前に真実であって、はじめて、「父と母を敬え」「殺すな」「姦淫するな」等々のおきても、全うされるのではないか。モーセはこの十戒をもとに、多くの律法を定めたが、とにかく、まず第一に神に対するあり方が啓示されたのは、すばらしいことであった。それゆえに、この「十戒」は、おそらく永遠に光芒を放つにちがいない。」(九 律法・十戒)
「「汝の父母を敬え」が、神と人間との関係につづいて出されているのは意味深い。自分の親を受け入れることのできない人間が、他の人間を正しく受け入れられるはずがない。と言えば、いや、親を受け入れることはできないが、友人なら受け入れることができると、人によって言うかもしれない。しかし、それは、友人は親ほど身近にはいないからであって、もし身近にいるなら、はたしてどうなるか、それはわからない。だから、親との関係を正すことは、他との人間関係を正す基になるのではないだろうか。親との関係が正された時、前掲の家出してきた娘さんが書いていたように、他の人との関係も正常になるのであろう。」
(同)
「もっとも、そのような完全な人間ははたしているかどうか。わたしたちは多かれ少なかれ、神の目をおそれるより、はるかに人の目を意識して生きているのではないか。わたしたちは、本来第四条までを守り得ぬように生まれついているのだ。つまり、それが原罪を負っているということでもあろう。この原罪ゆえに、わたしたちは神中心ではなく、自己中心の生活をなし、自己中心のゆえに、人を憎み、欲望を起こして、第五条以下の罪を犯していくのであろう。もし、キリストが、わたしたちの罪を負ってくださらなければ、わたしたちは、一体、どうなっていたであろうか。思いはやはり、十字架によって許してくださるキリストに帰ってくるのである。」(同)
「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は罪を犯したので神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:20~24)
②傲慢
「サムソンは、自分の力が神から与えられたものであることを忘れ、傲慢になり、自分勝手になって、不信仰な自堕落な生活に入ってしまった。わたしたちも、ともすれば神の恵みを思わず、自分の力で何かをなし得るように思い、順境にあれば傲慢になりやすいのによく似ている。ところでサムソンは、両眼をえぐられて、はじめて見るべきものがはっきりと見えてきたのではないだろうか。つまり不信仰の自分と神が見えて来たのではないだろうか。」(十 怪力サムソン)
「私ではありません。神が、パロの繁栄を知らせてくださるのです。」(創世記41:16)
「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」(Ⅰコリント15:10)
2、詩書・預言書からのメッセージ
①苦難
「神は、なぜヨブに災いを下したかを、ここでは何ら答えていない。神はただ、ご自分が全能なる方、万物の創造者でいられることだけを語られるのである。神が何も答えられなくても、神がそこに現われ給うただけで、論争は終わっている。ここでわたしは、信仰というものを、改めて知らされる思いがする。神の知恵とそのみ心は、人間には計りがたく、きわめがたいものなのだ。だから、人間にとっては、「神がいられる!」という一事がわかれば、それで充分なのだ。あとはすべてを神にゆだね、託すればよいのだ。人間の考えをはるかに超えた、神の配慮を喜べばいいのだ。」(十二 苦難の書ヨブ記)
「十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」」(ヨハネ20:24~28)
②ざんげ
「ダビデは預言者ナタンの譴責によって、直ちに神の前に罪をざんげした。ダビデがウリヤを殺して、その妻を奪ったことは、もちろん許容できぬところである。が、預言者ナタンに叱責された時にとった彼の姿は、いじらしいほどに素直であった。「わたしは主(神)に罪を犯しました」ただ一言、ダビデはこう言った。何の弁解も彼はしなかった。」(十三 詩篇とダビデ王の功罪)
「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)
③知らなければならないこと
「いわば箴言のテーマは、「神を信ずることが、知識のはじまりである」ということになる。新約聖書のコリント人への第一の手紙第八章には、<もし人が、自分が何かを知っていると思うなら、その人は知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない>というパウロの言葉がある。なんと、痛烈な言葉であろう。確かに大学を出、専門的に学んでも、知らなければならないほどの事すら知っていなければ、政治も誤り、教育も誤り、裁判も誤りに陥ることは当然であろう。反対に、神を知っていれば、その人の判断は神の心にそってなされるから、誤りは少なくなるかも知れない。 ・・・わたしたちも日常生活を省みると、そのことがよくわかる。神を信ずる者の家庭の主人は神である。すべての人が、この神のみ心のままに生きるならば、ずいぶんと、家庭の姿は変わるにちがいない。 」(十四 箴言)
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」 (箴言3:6)
④聖書
「王の事績をその国の人間が書く時、あたりさわりなく王をほめたたえることが多い。欠点にはほとんど触れない。・・・しかし、聖書が歴代の王に対して述べる言葉には、何のタブーもない。イスラエル民族に最も愛されるダビデ王も、その犯した罪が容赦なく明るみに引き出されている。これは、絶対唯一の神のほかに、何ものをも拝むべからずという戒律を持つからである。 ・・・聖書の歴史には、不信仰の王が、いかに神の恵みからおちて行ったかが、いたる所に書かれている。だから、これは歴史書であると同時に、信仰の書といっていい。イスラエルを神に立ち返らせるための聖なる書なのである。」(十六 断章)
「それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」(Ⅰコリント10:11)
