礼拝
長谷川先生が仙台聖泉一本杉教会に来られたため、動画はありません。
レジュメ
三浦綾子文学講座 「旧約聖書入門」①
1、「旧約聖書入門」とは
①刊行順では第20番目の作品。第27番目の作品である「新約聖書入門」はこの姉妹版。
・連載 1972年8月~1974年3月 「信徒の友」(日本基督教団出版局)
・発行 1974年(昭和49年)12月20日(光文社)
②主題は「聖書」
「聖書は最高の文学だといわれているが、おもしろいことからいえば、旧約聖書は絶対におもしろい。だが、興味本位に読みすごすだけでは、何にもならない。そこにふくまれている宝石のような真理を見つけなければ、意味がない。」(カバー裏)
2、「旧約聖書入門」のメッセージ
①旧約聖書とは
「旧約・新約合わせて聖書なのである。」(まえがき)
「旧約とは、神が人に対してなされた旧い契約、新約とは、新しい契約のことで、この旧約を読まねば新約聖書を正しく理解することはできない。」(同)
「旧約は三十九巻、新約は二十七巻で、合わせて六十六巻ある。・・・この旧約の三十九巻は救い主キリストのこの世に来られるのを預言し、かつ待ち望んでいる書であり、新約の二十七巻には、その来たり給うたイエス・キリストについて書かれている」(九 律法・十戒)
「旧約聖書は、歴史(創世記からエステル記まで十七巻)、詩(ヨブ記から雅歌まで五巻)、預言(イザヤ書からマラキ書まで十七巻)の三つに分かれている」(同)
②信仰の土台を教える創世記―この本の半分(一から八)を占める
・神
「科学者ほど、謙遜に神の意志を自然の中に見るというが、 「神は天と地とを創造された」という言葉は、まさしく真実であり、真理であろう。もし、この途方もない、広大な大宇宙の中で、人間が一番偉いものだとしたら、それは何と頼りのないことであろう。・・・しかし、「神は天と地とを創造された」のである。わたしは、まずこの一言をくり返しくり返し、くど過ぎるまでに考え、味わい、踏まえることが、聖書に対する姿勢として不可欠なことであると思う。」(一 天地創造)
・人
「「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人をつくり、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』」(創世記一章・二六節)
神は自分のかたちに人を創造されたわけである。・・・ところで、「神は自分のかたちに人を創造された」とは、どういうことか、考えてみたい。これは、わたしたち人間の霊性について言っているのである。神は、体をお持ちにならない方(キリストは「神は霊である」と言われた)であるから、神の体に似ているのではなく、その霊性に似ているというのである。」(一 天地創造)
・罪
「以上、少しく長いが、創世記第二章の一部と、第三章全部を記してみた。あえてこれだけの行を引用したのは人間の世界に罪のはいってきた様子と、その結果、人間に苦悩が伴うに至った次第が、ここに明確に書かれているからである。この個所を知らずには、人間の罪について語ることはできない。したがって救いについて知ることもできない。ここは、すべての人が特に熟読しなければならない重要な個所なのである。」(二 アダムとイブ)「わたしたちの罪は、自分が罪人でありながら、何としても罪人だと思えぬところにあるのではないか。アダムとイブも、自分がどれほど不遜な罪を犯したかを認めることができなかったにちがいない。彼らは、神の前に許しを乞いはしなかった。・・・罪を犯しながら、罪と認めない。これが、本当にゆるしがたい、確定的な罪なのではあるまいか。」(同)
・救い
「が、楽園を追放する時、神はこの罪を犯した二人に、皮の着物をつくってくださった。旧約の神は怒りの神だとしばしば聞いてきたが、わたしははたしてそうだろうかと疑うのだ。未来に救いの望みを備え、皮の衣を着せて労苦に備えてくださった神は、やはりはじめから深い愛の方であると、わたしは思う」
(二 アダムとイブ)
「カインが、自分の罪は大きくて負いきれないと悔いた時、神は、特別のしるしをカインにつけて、他の人々から殺されることのないように守ってくださった。このしるしが、つまり十字架と同様、恩恵なのであろう。実に神は愛するに値しないものを愛する方なのである。」(三 カインとアベル)
「ところで、ノアの時代にはノアにのみ、箱舟を造ることを神は命じられた。が、新約の時代である今はどうであろう。神はまさに、すべての人に対して、箱舟に乗りこむことを求めていられる。正しい人、正しくない人の差別はそこにはない。現代の箱舟はすなわちキリストである。キリストによって、人は明らかに救われる。その信仰を持つ限り、誰でもみな神に受け入れられるのだ。」(四 ノアの箱舟)
「なぜ、ロトは救われたのか。聖書には、「神はアブラハムを覚えて、その滅びの中からロトを救い出された」と記されている。決してロトが義しかったからではなく、その信仰が篤かったからでもない。アブラハムの信仰と、その祈りが神に憶えられていたからである。・・・このアブラハムとロトとの関係は、のちに、新約の時代には、キリストとわれらの関係に、大きく飛躍したのではないかと、わたしは思うのだが、いかがであろう」(六 ロトとその娘たち)
「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ローマ8:34)
・信仰
「神のなさることには、絶対に間違いがない。神は人より、絶対に正しいとする、この絶対的信頼、これが「信仰」というものではないだろうか。 ・・・わたしたちの人生には、どうも、神のすることはわからないということはある。が、わかりはしないが、それは神の長い計画の中では、正しいことなのだということだけは、信じたいと思う。」(七 アブラハムの信仰)
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)
「新約聖書に、「真理は汝らに自由を得さすべし」と書いてある。真理、すなわち神の子イエス・キリストは、わたしたちに自由を得させるであろうというこの聖句は、まさに真理である。これは、わたしたちが、人間としてなすべきことを自由になす力が与えられるということだ。憎い人でも憎まぬ自由、どんな人でも、受け入れる自由、正しいことをする自由、誘惑を退ける自由、そうした自由を神はわたしたちに与えてくださる。つまり、罪からの自由を与えてくださるのだ。ヨセフの生き方は、そのみ言葉をシンボライズしていて、奴隷であっても囚人であっても、人は神と共にある限りかくも自由だと、証詞しているように、わたしには思われる。」(八 ヨセフの物語)
「信仰者は神にのみ、より頼むべきなのだ。 ・・・それなのに、ともすれば神よりも人に頼り、期待しては、裏切られたとか、頼りにならぬと呟くことの何と多いことであろうか。・・・給仕長に忘れられていた二年に、ヨセフはいよいよ、神のみを信頼すべきことを学んだにちがいない。 」(同)
「あなたの道を主にゆだねよ。 主に信頼せよ。 主が成し遂げてくださる。 主は、 あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。 」 (詩篇37:5、6)
