【レポート】2025年9月14日 三浦綾子文学講演礼拝

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レジュメ

三浦綾子文学講座 「光あるうちに」②

1、神を知識的に知る( 「神ならぬ神と、真の神」~「キリストの復活と聖書」)

「人間が考え出した神は神ならぬ神であり、聖書によって示されている神が真の神である。 」

( 「神ならぬ神と、真の神」)

「人はそれぞれ、時代により、また成長の過程により、その持つ神観念はことなるのではないだろうか。」

「このように、人間とは、視力も聴力も、すべての能力においても、限られた存在なのだ。だから、自分の目で見、耳で聞く以外のものは認めないということ自体、ナンセンスなのである。 」

(例)人間の耳 超音波の笛は人間には聞こえず、犬には聞こえる。

「神は認められるべき存在ではなく、 信ぜられるべき存在なのだ。 認識の対象ではなく、 信仰の対象なのだ。 」

「聖書によって示されている神とは、どんな神か、次に述べたいと思う。 」

創造主 「はじめに神は天と地とを創造された」(聖書の第一番の言葉)

聖 「われらの神、主は聖でいらせられる」(聖書のいたる所に書かれている)

義 「神が正義であるということは、わたしたち人間にとって、感謝なことだが恐ろしいことでもある。なぜなら、わたしたちが義しいとは言えない存在だからだ。」

愛 「ありがたいことに、聖書はこの聖にして義なる神が、同時に愛なる神であり、ゆるしの神であることをわたしたちに示して止まないのである。」

「これらの神の存在、神性は、キリストによって啓示されている・・・イエスの弟子の一人は、神を示して欲しいとイエスに言った。イエスは言われた。 「わたしを見、わたしの業を見よ」と。」

「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。 ・・・御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われで・・・す。 」 (へブル1:1~3)

「神は神の子イエスの十字架によって人間の罪をゆるされる」 ( 「神とキリストと人間の関係」 )

「わたしたち人間は、罪の前に全く無力であり、人間自身ではどうにもしようのないことを知らされる。しかし、それ故にこそ神は神の子をこの世につかわされたのだ。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった」と聖書は宣言する。つまり、神の子は十字架にかかられて、全人類の罪を、神の前に詫びるために、この世に来られたのだ。これがキリストへの信仰なのだ。神の子イエスは、全く潔い方であられたからこそ、わたしたちの罪をあがなうことができたのだ。」

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。 」 (Ⅱコリント5:21)

「イエスは聖書の預言通り復活された」 ( 「キリストの復活と聖書」 )

「二千年、キリスト信者は、この復活を堅く信じて生きてきた。」

「人の子・・・は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえるであろう」(聖書)

「イエスが役人たちに捕らえられた時、そばにいた弟子たちは、散り散りに逃げた。・・・ところが、イエスの復活を見たあとの弟子たちは、別人のように強くなっていった。」

「聖書は今から四千年以上も前に旧約の部分が書き始められ、その二千年後にイエスが生まれ、三十三歳で十字架にかかられた後、弟子たちによって新約聖書が書き上げられるまで、つまり二千年も書きつがれた本である。 ・・・天地創造から始まって、神の子イエスの出現そしてその救いの実現に至るまで、一貫した流れをそこに見ることができる。」

「わたしが最も大事なこととして、あなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと・・・」(聖書、パウロの言葉)

「キリストの誕生や死についても、あらかじめ旧約聖書に記されているが、イエスはそれに書いてあるとおり、世に生まれ、死に、復活したとパウロは言っているのである。 」

2、神を体験的に知る( 「キリストの教会」~「終章」 )

「とにかく教会に行ってみよう」 ( 「キリストの教会」 )

「「キリストを信ずるためには、どうしたらよいでしょうか」このような読者の手紙が、たくさんくる。わたしはその方々に、大ていはこう答える。「だまされたと思って、三年間、教会に通ってみてください。 ・・・」 」

「八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスは答えてイエスに言った。 「私の主。私の神。」 」(ヨハネ20:26~28)

「どんなに入りづらくても、信仰を導いてもらうためには、教会は必要なところなのだ。無論、教会は、単に信仰を学ぶための学校ではない。神を礼拝し、神と人とが交わり、人と人とが交わり、そして、ここで聖書の言葉を聞き、力を与えられ、その与えられた力で生きるべく、各々の生活の場に向って行くところでもある。」

「とにかく祈ってみよう」 ( 「いかに祈るべきか」 )

「世界の偉大なる信仰者たちは、みな真剣に祈った。そして、その祈りによって、確かにきき給う神を見た。これは理屈によって神を知ることとは全くちがう。確実に神が祈りをきき給うことを、前にのべたジョージ・ミューラーのエピソードのように、全身全霊で知ってきたのだ。 」

<ジョージ・ミューラーの例>

「キリストを信じて以来のこの人の生活は、実に見事に、神は必ず祈りをきき給うという信仰によって、貫かれている。その信仰によって、彼は世界一の孤児院をつくり、生涯に十五万人の孤児を教えた。彼は常々、「祈る者を、神は決して餓えさせない」と、言っていた。だから、彼の偉大なる事業も、一切はミューラーの祈りによって与えられたという。」

「幾度も祈りをきかれた経験のある者には、祈り以上の力はない。一度その味をしめたら、祈りはやめられない。」(榎本保郎牧師)

「キリストを信じて歩んでみませんか」 ( 「終章」)

「わたしは、この章の最後に、敢えて今一度、読者の一人一人に向って呼びかけたい。「かけがえのない、そして繰り返すことのできない一生を、キリストを信じてあなたも歩んでみませんか。今までの生活が、どんなに疲れきった、あるいは人に言えない恥ずかしい生活であっても、または言いがたいほどに苦しく悲しい毎日であったにしても、今、あなたの前に、あなたの足跡が一つも印されていない純白の布のような道があるのです。過去はどんな歩み方であったにせよ、自分の目の前に、足跡ひとつない道があり、そこにどんな足跡を残して行くかは、自分の自由だということ、そんなすばらしいことはないと思います。過去はいいのです。今からの一歩を、あなたもキリストの愛の手に導かれて歩みたいとはお思いになりませんか。そしてあなたの人生を喜びに溢れた人生に変えたいとは、お思いになりませんか。そのことが、あなた自身にどんなにむずかしく見えても、神が助けてくださるのです。キリストはこう言っておられます。<人にはできないことも、神にはできる>と」光あるうちに光の中を歩もうではないか。 」

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。 」 (黙示3:20)