【レポート】2025年7月13日 三浦綾子文学講演礼拝

礼拝

参加者のコメント

今回は「光あるうちに」の1回目でした。この作品は「道ありき」「この土の器をも」と合わせて三部作と称されていますが、前2作が三浦綾子さんの自伝的内容であるのに対し、この3作目は信仰入門書的な内容となっているとのことです。特に印象に残っていることを1点挙げさせていただきます。
 伝統的な福音メッセージでは「神・罪・救い」の順序が比較的強く踏襲されているのに対し、この作品をはじめとした三浦綾子さんの著作における福音のアプローチは、初めに人間について語られ、罪を含め様々な人間の欠けを指摘し、その全てを満たして下さる方として最後に神を紹介している、ということです。
 最初に神を打ち出すことは、キリスト教やユダヤ教、イスラム教などの一神教の文化圏のように、絶対的に神の存在がある国々の人々には有効だが、日本のように神のイメージも多神教的であり、しかも人によってバラバラで、無神論者も多い国では、なかなか難しいのではないか、それよりも他人の目を強く意識し、人間関係を重んじる日本人には、まず人間から論じ始めるのが有効であり、三浦綾子さんのアプローチは理に適っているのではないか、との解説でした。
 さらに本書では、人間を論じるに当たって、まず人間のプラス面から始め、どのような人の人生にも価値があり、意味があることをまず取り上げて読者が人間を或いは自分自身を価値あるものとして捉えるよう導き、その上で次に人間のマイナス面、人間の罪、弱さ、愛の無さ等を論じ、それらからら救って下さる存在として神を詳しく語っているとのことです。
 福音宣教(イエス・キリストの教えを全世界に広く伝えること)に携わる者として、とても参考になるお話で感謝いたしました。2回目を楽しみにしております。

レジュメ

三浦綾子文学講座 「光あるうちに」①

1、「光あるうちに」とは

①刊行順では第11番目の作品で、「道ありき」「この土の器をも」に続いて「主婦の友」に連載された作品。

「道ありき第三部/信仰入門編」と副題が付けられている。

・連載 1971年1月~12月

・単行本発行 1971年(昭和46年)12月15日

②信仰入門書

「「道ありき」の完結編/神とは何か、愛とは何か。われわれがおのずから持っている罪を自覚し、そこに神の愛を思うとき、はじめて安らぎが得られるのだと説く、感動に満ちた信仰入門編!」(オビ)

・前半の6章 「序章」~「虚無ということ」 人間について

・後半の6章 「神ならぬ神と、真の神」~「終章」 神について

2、人間のプラス面を知る( 「序章」 )

「人間は生きている限り、いかなる人間であっても使命が与えられている。」

<睦子さんの例>

「睦子さんは確かに病人である。長い間、じっとベッドに臥ていて、何の働きもしないように見える。だが彼女は多くの病人を慰め、力づけた。彼女がそこにいる。それだけで、人々は日々慰められたのだ。生きている人とは彼女のような人をいうのではないか。 」

<ハンセン病のAさんの例>

「Aさんの顔は光り輝いていました。喜びに溢れていました。呼吸しかできない人が、 こんなに輝いている。その事実にわたしは打たれました。自分では呼吸しかできない人が、なぜこうも輝いているのか。その秘密は彼の枕もとにある点訳の聖書でした。 」(三浦綾子さんのペンフレンドの手紙)

「手が動かず、足が動かず、目が見えなくても、人間は人間なのだ。しかもその人間が、輝くばかりの喜びに生きているとしたなら、どんなに多くの人を励まし、勇気づけることであろう。人を励まし、希望と勇気を与えること、これこそ本当の人間の生き方ではないだろうか。 」

3、人間のマイナス面を知る( 「罪とは何か」~「虚無というもの」 )

①「私達は罪ある存在である」 ( 「罪とは何か」 )

「罪を罪と感じ得ないことが、最大の罪なのだ」

(例)三浦綾子さん 二重婚約、以前の婚約者のお見舞い

「義人なし、一人だになし」(聖書) 「わたしたちは一人残らず罪深い人間なのだ。」

法にふれる罪 泥棒、殺人、詐欺、傷害など

道徳的な罪 不親切、裏切、短気、意地悪など

原罪 神中心であるべきなのに、自分中心であること

②「私達は弱い存在である」 ( 「人間この弱き者」)

「子供一人ぐらい、思いのままに育てられると思ったわ。子供どころか、自分自身の短所さえ、なおす力を持っていないのよ、わたしたちって。」(三浦綾子さんの知人)

「わたしたちの平静な心は、占い一つ、病気一つで破られ、動揺する。」

「日常生活に起る問題にすら、わたしたちは賢明に対処することはむずかしい。いわば吾身一つの出来ごとさえ、一人でテキパキ処理できるほど、わたしたちは賢くはない」③「私達は不自由な存在である」 ( 「自由の意義」)

「キリスト信者になってしまったら、窮屈でしょう。わたしは自由に生きることができなくなるから、信仰はご免です」(多くの人の言葉)

「自由と放縦とはちがう。わがまま勝手とはちがう。」

「以上、目、口、手、足というように分けて書いて来たが、結局は、わたしたちは如何に不自由な人間ではないか、ということなのだ。 」

「わたしたちは実にまことに手も足も、目も耳も口も不自由な人間なのである。」

④「私達は愛のない存在である」 ( 「愛のさまざま」)

<恋愛のもろさ> チンピラに襲われ、恋人を置き去りにして逃げてしまった男性

<親子愛のもろさ> 幼児虐待、幼児殺し、わが子を売春婦などに売り飛ばす。

<友情のもろさ> 三浦綾子さんの知人達の例 異性問題で友情がもろくも失われた。

⑤「私達は虚無的な存在である」 ( 「虚無というもの」)

「わたしたちは、自分の生活が、ある人は五十パーセント満たされていると思い、ある人は九十パーセント満たされていると思って生活している。が、残りの五十パーセントが満たされない。十パーセントが満たされない。何かしらぬが、どこか満たされない。このような生活をわたしたちはしているのではないだろうか。」

旧約聖書 伝道の書 「空の空、空の空、一切は空である」

4、神を知る

①「神は弱い人間を強くする」 ( 「人間この弱き者」)

例1 引田一郎 北海道中の一軒残らずキリスト伝道のトラクトを徒歩で配った人。

不治と言われる重症のカリエスを十二年も病んだ人。

例2 矢部登代子 十歳から三十年間ただの一度も立ったことがない病人だが、彼女を通して受洗した者は三十名を越え、全国からの訪問者はその美しく明るい笑顔に励まされ、元気づけられて帰って行く。

②「神は不自由な人間を自由にする」 ( 「自由の意義」)

<ヨセフの例> 女性から自由な男性

<長野政雄さんの例> 死から自由な人

「真理はあなたがたに自由を得させるであろう」(聖書)

③「神は愛のない人間を愛のある者にする」 ( 「愛のさまざま」 )

<「氷点」に登場する宣教師、「塩狩峠」のモデル長野氏の例>

「最も大切な自分の命を人に与えることこそ、愛すると言えるのではないか」

「人、その友のために命を捨つる、これより大いなる愛はなし」(聖書)

④「神は虚無的な人間を満たされた者にする」 ( 「虚無というもの」)

「なぜ彼らが虚しくならないのか。それは、誰も彼から奪うことのできない実存を知っているからだ。虚無を満たすもの、それは実存しかない。実存とは、真実の存在なる神である。永遠に存在する神である。この神を信ずる時、わたしたちは虚無を克服することができるのだ。」

⑤「神は人間に新しく生きる力を与える」 ( 「序章」 )

「誰に対しても、神は人間として新しく生きる力を与え得るのだ。 ・・・信者たちは、そうした奇跡的な例を、限りなく知っている。人間が人間として生きて行くための、神の力を知っているのだ。」

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」 (Ⅱコリント5:17)