【レポート】2025年6月1日 三浦綾子文学講演礼拝

礼拝

参加者のコメント

6月1日は、いつものZOOMでの集会でした。「人生にとって不可欠な4つのこと、人生の目的、自分の存在価値、罪の赦し、将来への希望、について主人公がどのようにそれらの問題に取り組み、道を見出して行ったか」について学びました。結婚目前であった主人公が何故、婚約者や家族を残して、自らの命を捧げ得たのか?自分は死んでも、生きておられる神の御手に全てを委ねる信仰があったこと、それ故に彼の死は多くの人々の肉体の命ばかりでなく、霊的な命をも救うに至り、彼の死を通して多くの人々がキリストを信じる信仰に入ったことが語られました。まさに「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」との御言葉の通りであることを思わされました。三浦綾子さんの多くの作品中、人気No.1の本作が変わらずに永く福音の種(イエス・キリストの救いの教えのキリスト教的表現)として神に用いられていることを感謝に思います。

レジュメ

三浦綾子文学講座 「塩狩峠」②

1、求道と答え

①人生の目的

「やはり何のために自分は生きてるのだろうかと思うと、何のためにも生きていない気がして淋しくなるだろう。生きている意味がわからなきゃ、死ぬ意味もわかりはしない。」(「トランプ」)

「父の貞行の急死に会った時は、信夫は死というものが恐ろしかった。そして、人間は必ず死ぬ者であることを知らされた。今の信夫の、死についての考え方は、その時とは少しちがっていた。やがて自分も死ぬものとして、どのように生きるべきかということを思うようになっていた。」(「連絡船」)

「わたくしたちのために犠牲となられたイエス・キリストを思う時、わたくしもまた、この身を神に捧げて、真実の意味で神の僕になりたいと思っております。」(「隣人」)

「信夫さんって、神さまのために生き、神さまのために死ぬことにしか、生きがいを感じていらっしゃらないと思うの。信夫さんが何よりも欲しいのは、お金でもなく、社会的な地位でもないわ。ただ信仰に生きることだけだと思うの。」(「かんざし」)

「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。」(ローマ14:8)

「昨日信夫は、「世の光たらん」という題で、熱弁をふるった。「お互いにこのくり返しのきかない一生を、自分の生命を燃やして生きて行こう。そしてイエス・キリストのみ言葉を掲げて、その光を反射する者となろう。安逸を貪るな。己れに勝て。必要とあらば、いつでも神のために死ねる人間であれ。」」(「峠」)

「あなたがたは、世界の光です。・・・このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:14、16)

「ぼくは毎日を神と人のために生きたいと思う。いつまでも生きたいのは無論だが、いついかなる瞬間に命を召されても、喜んで死んでいけるようになりたいと思いますね。」 (同)

「「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」」(マタイ22:36~40)

②自分の存在価値

「ぼくはかなり自信家だったが、このごろは自分がこの世に何の取柄もない存在だと思うようになっていたんだ。しかし今、吉川君の話を聞いていると、この自分もまた何らかの使命をおびている存在ではないかと、あらためて考えさせられたよ。花には花の存在価値というものがあるんだな。 」(「トランプ」)

「ぼくはたった今まで、ただ単にふじ子を足の不自由な、かわいそうな者とだけ思っていたんだ。何でこんなふしあわせに生まれついたんだろうと、ただただ、かわいそうに思っていたんだ。だが、ぼくたちは病気で苦しんでいる人をみると、ああかわいそうだなあ、何とかして苦しみが和らがないものかと、同情するだろう。もしこの世に、病人や不具者がなかったら、人間は同情ということや、やさしい心をあまり持たずに終わるのじゃないだろうか。ふじ子のあの足も、そう思って考えると、ぼくの人間形成に、ずいぶん大きな影響を与えていることになるような気がするね。病人や、不具者は、人間の心にやさしい思いを育てるために、特別の使命を負ってこの世に生まれて来ているんじゃないだろうか」(同)

「人それぞれに存在の理由がある。病人には病人の存在理由があり、自分たちもそうなのだ」(「連絡船」)

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりに・・・するのだ。・・・わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ43:4、7)

③罪の赦し

「永野君、・・・君はなぜイエスが十字架にかかったかを知っていますか・・・先ほど先生は、この世のすべての罪を背負って十字架にかかられたと申されましたが・・・そうです。そのとおりです。しかし、永野君、キリストが君のために十字架にかかったということを、いや、十字架につけたのはあなた自身だということを、わかっていますか・・・先生に、自分を罪深いといわれると、ハッキリとうなずくほどの、罪意識は持っていないように思うのです。・・・永野君、これはぼくも実行してみたことなんだが、君もやってみないかね。聖書の中のどれでもいい、ひとつ徹底的に実行してみませんか。徹底的にだよ、君。そうするとね、あるべき人間の姿に、いかに自分が遠いものであるかを知るんじゃないのかな。」( 「雪の街角」 )

「律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。」(ローマ7:7)

「律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。」(ガラテヤ3:24)

「わたくしは、良きサマリヤ人のところを読み、・・・自分なら良きサマリヤ人になれるのではないかと、うぬぼれました。そして、ある友人のために、ひとつ徹底的に真実な隣人になろうと思いました。・・・そして、わたくしが彼を心から愛し、真実な友になるのだから、当然相手も喜ぶと思いました。しかし彼はわたくしを受け入れてくれませんでした。・・・そしてついには、わたくしの心は彼への憎しみで一ぱいに満たされてしまいました。そしてわたくしはやっと気づいたのです。 ・・・わたくしこそ、ほんとうに助けてもらわなければならない罪人だったのです。そして、あのよきサマリヤ人は、実に神の独り子、イエス・キリストであったと気がついたのです。それなのに、わたくしは傲慢にも、神の子の地位に自分を置き、友人を見下していたのです。いかに神を認めないということが、大いなる罪であるかをわたくしは体験いたしました。いまこそわたくしは、十字架の贖いを信じます。」(「隣人」)

「キリストは・・・自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。」(Ⅰペテロ2:22、24)

④将来への希望

「神のなさることは、常にその人に最も良いことなのですよ」(「峠」)

「たったいまのこの速度なら、自分の体でこの車両をとめることができると、信夫はとっさに判断した。一瞬、ふじ子、菊、待子の顔が大きく目に浮かんだ。それをふり払うように、信夫は目をつむった。と、次の瞬間、信夫の手はハンドブレーキから離れ、その体は線路を目がけて飛びおりていた。客車は不気味にきしんで、信夫の上に乗り上げ、遂に完全に停止した。 」(同)

「彼は、自分の命と引き代えに多くの命を救ったのだ。単に肉体のみならず、多くの魂をも救ったのだ。いま、旭川・札幌において、信仰ののろしが赤々とあがり、教会に緊張の気がみなぎっている。自分もまた信仰を強められ、新たにされたとふじ子は思った。」(同)

「「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん」その聖書の言葉が、吉川の胸に浮かんだ。」(同)

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)

「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主」(ルツ2:20)

「母を失った信夫はどんな生涯を送ることだろう。・・・でも、いよいよとなれば、信夫のことは神さまにおまかせするより仕方がないかもしれない。・・・今は辛くても、きっとこのことも、結果としてはよいことであったという日が来る。神が生きておられる以上、信夫のことも、神が守って下さるにちがいない」(「母」)

2、 「永野信夫」という名前が示すもの(実在のモデルは長野政雄氏)

「永」遠の「信」実(or「信」仰者)なる「夫」 三浦光世氏が意味されているのではないか?

最後に命を捨てたことからは前川正氏も想定される。

(参考)「どんな言葉で感謝すべきか、教えて下さい。わが師わが夫なる 光世様」(「塩狩峠」の献辞)