礼拝
感想
レジュメ
三浦綾子文学講座 「ひつじが丘」②
1、人生になくてはならぬもの
①人生の目的
「自分の人生を、一体何の目的で生きているのかと、奈緒実は自分の足もとに目を落とした。歩き回った靴のよごれが目についた。その靴は、今の自分を象徴しているように、奈緒実には思われた。」
「「一体、人間って何しに生きてるんだろうな」良一は輝子の言葉を無視して竹山を見た。 」 」
「 「先生。漱石の『三四郎』をお読みになって?」・・・「あの中に迷える子羊(ストレイシープ)という言葉が思い出されてなりませんの」竹山はうなずいた。そうだ。人間たちこそこの羊たちより、もっともっと愚かな迷える存在なのだと竹山は思った。」
「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(Ⅰペテロ2:25)
「「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。 「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」」(マタイ22:36~40)
②本気で愛してくれる人
「奈緒実も、結局は、人格と人格の激しいぶつかり合いを求めていたのだと竹山は思った。結局は本気で愛してくれる人を求めているということなのではないかと、竹山はあの日の英語の時間ことを思い出した。」
「良一は愛情よりも金の方がありがたいという母に育てられ、そして結婚したわたしは冷たくて・・・きっと淋しい一生だったと思いますわ。」
「「わたしが殺してしまった」輝子はそう言って半狂乱になった。しかし奈緒実は、自分が良一を殺したような気がしてならなかった。自分の冷えきった心が、良一を凍死させてしまったように思われた。」
「十字架にかかったキリストから、血がしたたり落ちていた。その十字架の下にキリストの血を浴びてじっとキリストを見上げている男の顔、それはまぎれもなく良一の顔ではなかったか。泣いているような、悔恨に満ちたその良一の目はまっすぐに十字架のキリストを仰いでいる。その見おろすキリストの何と深いあわれみに満ちたまなざしであろう。その溢れるような慈愛の目は、見る人の心を慰めずにはおかないほどあたたかかった。」
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
③神と人からのゆるし
「奈緒実、お前自身、幾度も幾度も人にゆるしてもらわねばならない存在なんだよ」
「もう二十年も前のことだ。ある一人の男がいた。その男は結婚するまで童貞だったんだが、結婚して妻が出産する時になって、過失を犯してしまった。しかも、それは妻の姉だった。その姉は結婚していて人妻だった。出産してから、その事実を知った男の妻は、何と言ったと思う? わたくしは神と結婚したのではありません。人間と結婚したのです。人間というものは、完全ではありません。いつも何かしら過失を犯しています。過失を犯さなければ生きて行けないのが人間です。そう言って、その妻は、自分を裏切った夫と、妹を裏切った姉をゆるしたのだよ。その妻はキリスト信者だった。この時、その男はゆるすということが、どんなに大きく人を動かすかを知った。それからその男は信者になり、勤めていた会社をやめて、神学校に行き牧師になった。その赤ん坊は病気で死んでしまって、あとに生まれたのが、この奈緒実だったのだよ」
「われわれはともすれば、自分を正しい者のように思い、人を責め、きびしく裁こうといたします。けれども果たして、神はわれわれ人間に人を裁く権利を与えておりましょうか。あの聖パウロでさえ、自分を罪人の頭と申しております。われわれが神の為にでき得ることは、実は人を責めることではなく、ただゆるしを乞うことだけではないでしょうか。どうか、ここにかかげてある彼の絵を見てやって下さい。これは彼が十字架の下にゆるしを乞うている姿であります。キリストの流したもうた御血潮をもろ手に受けて、『キリストよ。あなたを十字架につけたわたしをおゆるし下さい』と告白している姿であります。」
「人間は一人として完全な者はありません。わたしはこの年まで、毎日いかに不完全な過失多い毎日を送ったでありましょうか。わたしは年若き日に、妻ある身でありながら、他の女性と通じた恥ずべき人間であります。たとえこのように目に見えた罪は犯さなかったとしても、神の光の前に照らし出される時、頭を上げ得ない人間であります。人間はまことに過失を犯さなければ生きていけない存在である故に、われわれは、ただ神と人とにゆるしていただかなければ、生きて行けない者なのであります。」
「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(コロサイ3:13)
2、名前が示すもの
①愛子 「愛の子」 本当に人を愛する人とはどのような人なのかを示す。
②良一 「一番良い」 罪を自覚し、十字架のゆるしを受け取れる人が一番良い人であることを示す。
「ところが取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて帰りました。」(ルカ18:13、14)
3、三浦文学とは
①「ルオーの絵」より
(聖書を読まない人にキリストを実感させる文学)
「俺は聖書なんか読まないけれど、ルオーのキリストを見ていたら、何かこう迫ってくるものがあるんだ。悲哀っていうのかなあ。このキリストと俺は無縁の人じゃないっていう実感があるんだよ。」(真善美の文学)
「痛みっていうのかな、あわれみっていうのかな。あのルオーのキリストは・・・。あれを見ていて、何だか深い慰めを感じるんだ。ふいに真善美という言葉を思い出してね。真理イコール善イコール美であるなら、これこそ美だという気がしたんだ。そしたら、俺の書く絵は一体何だろう。いらいらしながら、鋭く尖った神経で捉えたつもりの美が、一体人の心に何を訴えることができるだろうとそう思っちゃってね」
②「良一の絵」より
(十字架のキリストを仰ぐ自画像的文学)
「これほどの天才を見出せなかったということで、わたしは自分が評論家であることをどれだけ恥じているかわからない」
「絵は技術やインスピレーションからだけ生まれるものではなく、深い魂の底から生まれるものであることを改めて知らされた」
③「奈緒実の童話」より
(生きる希望と勇気を与える文学)
「わたし、学園で一生懸命働きたいと思います。そして、子供たちに生きる希望と勇気を与えるような童話を、一生にただひとつでもいいから書きたいと思います。」