【レポート】2025年2月9日 三浦綾子文学講演礼拝

礼拝

感想

今回の講演では祈りについて多く語られました。いま生きている人のために祈ることはキリスト教の大きな特徴です。三浦綾子さんは夫婦で毎日200人のために祈っていたそうです。神に祈りが聞かれたとき、そのことを心から喜ぶことができるのは祈った者にしか分からない特権だということを教えられました。

レジュメ

三浦綾子文学講座 「愛の鬼才」②

1、母の言葉(①の続き)

「伸夫も久蔵も、資金を失ったことで真吉に劣らず力を落した。が、カクだけは毅然としていた。カクは、伸夫と久蔵、真吉の三人に言った。「素人のすることが、そんなにトントン拍子にいくと思いますか。長年の玄人でさえ、商売というものは、なかなかうまくはいかないものです。手をつけたばかりで、そんなに滅入っていては、一体この先どうなるのです。最初に失敗したことは、むしろ喜ばなければなりません。それこそが本当の元手です。お金は、わたくしがなんとか借りてくることにいたしましょう。」(第八章二)
「母の疲れた様子に、久蔵は言った。「あまり無理をしないでください。考えてみれば、あちこちで銀行さえ破産に瀕している時代に、ずぶの素人のわたしたちが菓子屋を始めるというのは、これは無謀に過ぎたかもしれません。菓子屋以外に転業の道がないのか、もう一度考え直してみましょう」するとカクは、にっこり笑って、「久蔵、お前はいつも、神さまさえその気になってくだされば、何でもできると言っているではありませんか」「そのとおりです。しかし、金策がつかないのは、神がわたしたちの仕事を、よしと見給わないからだと思うのです」「よしと見給うか、見給わないか、そんなことがどうして久蔵にわかるのです。わたしたちだって、大きな相談を持ちかけられれば、ちょっと考えさせてくださいと言って、すぐには返事はしませんよ。神さまだって、この時代に仕事を始めようとするわたしたちに、すぐにほいほいと返事をなさるはずはありません。このように八方ふさがりのような時こそ、久蔵、わたしたちにはすることがあるのではありませんか」言われて久蔵ははっとした。このたびの転業について、久蔵は久蔵なりに祈ってきたつもりだが、考えてみると、真吉や、大島や、斎藤の豊かな才が先に走って、心底から神に委ねる信仰があったとは言えないと思った。「わかりました、お母さん。祈る時間を神さまは与えてくださっているのですね」その夜久蔵は、妻のマサと心を合わせて一心に神に祈った。「主なる御神。このたびの転業が御心に叶うのでしたら、どうぞすべてのことを備えてください。しかし御心に添わないのでしたら、次に進むべき道を教えてください。どうか商売をすることによって、わたしたち親子兄弟が、心を濁すことのないように導いてください。神の栄光を現わすために、わたしたちをどうかお使いください」久蔵は切実に祈った。そして理想的な、清い経営ができるよう、心をひきしめて祈った。その数日後である。突如、藪惣七から電話がかかってきた」(同)
「不況のますます深刻になっていく一九二九年の暮にあって、ニシムラ洋菓子店のみが、異常な売れ行きに沸き立っていた。が、一人カクだけは、その沸き立つ渦の外にあった。カクはクリスマスの前夜、久蔵と真吉を前に坐らせて言った。「このたびは本当にご苦労さまでした。けれども昔から、勝ってかぶとの緒をしめよ、と言いますね。今こそ、わたしたちは心を引きしめなければなりません。一番大事なことは、神さまがすべてを整えてくださったということを忘れないことです。資金も、職人さんも、店も、すべては神さまのお計らいです。神さまが備えてくださったのです。自分たちの力だけでやったとは、決して思ってはなりません。恵みが大きくあればあるほど、感謝も大きくなければなりません」久蔵は改めて、母カクの偉大さを知った。開店以来、あまりの売れ行きに、興奮に興奮を重ねていた自分たちのあり方を久蔵は謙虚に反省した。」(第八章三)
「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(Ⅰコリント10:12)

2、高倉牧師の言葉

「この高倉牧師の講義を、その日十一月六日の夜も、久蔵は聞いていたのである。話を久蔵自らの言葉に戻そう。<その晩はイエス・キリストの十字架について、訥々とどもりながら話されました。外は荒れております。風雪の音が不気味に聞える。聞く者は僅かに三人、寒ざむとした部屋の空気に小さく寄り合ってお話を聞いておりました。高倉先生は、イエスが十字架上において言われた七つの言葉について、お話を進めておられました。特に「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ(わが神、わが神、なんぞ我を捨て給いし)」という聖言(みことば)について、罪なき神の子イエスが、何故神に捨てられたと思われたかについての話をされました。聞いているうちに、その十字架を囲んでいた祭司、学者、群衆、そしてローマの兵士たちのイエスを罵っている有様が、目に見えるように思われました。そして十字架上のイエスの痛々しい姿が、私の心の目に、はっきりと映し出されたのです。その時私は、この神の子を十字架につけて殺したものは人類の罪であり、その罪の審きを贖うために、罪なきイエスが、苦しみ、捨てられ、死に給うたという、それまで何度か聞いた話が急転しまして、私、即ちこの西村という汚い罪人の犯せる罪や、心がイエスを殺したのだ、下手人は私であるという殺人者の実感、しかも、わが救い主、わが恩人、わが父を殺した恐ろしい罪をわが内に感じて、戦慄いたしました。・・・>こうして久蔵は、翌日早朝小笠原氏宅に受洗の希望を申し入れ、さらにその翌日の日曜日の礼拝において受洗したのである。」(第三章三)
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。 」(Ⅰコリント1:18)

3、祖父への言葉

「 「では、いずれにせよヤソは死者を拝まぬと言うのじゃな」「はい。神以外の者は拝みません。キリスト教では人間の手で刻んだものを祀ったり、拝んだりもいたしません。とにかく死者を拝みはしませんが、毎日の生活の中で、あるいは祈りの中で懐しみ、思い出し、敬うのです」「久、今、お前は祈りの中で思い出すと言うたが、では、このわしが死んだなら、どんな祈りをするのか、今ここで即刻祈ってみよ」・・・「おじいさま、お言葉ですが、祈りの真似ごとはできません。・・・でも、常日頃、ぼくはおじいさまのために、どのように祈っているかを申し上げます。それでよろしいでしょうか」「お前の言うことももっともじゃ。なるほど、祈りの真似ごとはできぬか。では、わしのことを常日頃どう祈っておるか言うでみい」「はい、おじいさまのような立派な方が、ぼくの祖父であることを、心から神さまに感謝しております。そして、ぼくもおじいさまのように、学問に励み、礼儀正しい人間になれるよう、神さまが力を貸してくださるようにお祈りしています。むろん、今後もおじいさまがご健康で長生きなさり、生甲斐のある毎日であるように祈っております」 ・・・ 「一人の人間について、いちいちそれだけの言葉を使うのか」 「はい、両親や兄弟のため、先生や友人のため、教会のため、信仰のため、近所の人々のため、国のため、ぼくは毎日一時間近く時間をかけて祈ります」「何!? 一時間も?」」(第四章二)
「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王と高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。」(Ⅰテモテ2:1)

4、人々への言葉

「人の世話をするならば、とことんまでするべきだ。九十九パーセントでなく百パーセントするべきだ」(第七章二)
「先生という人は不思議な人であった。先生がドアをあけて入って来られるだけで、ぱっと病室が明るくなった。暖かい空気が流れこんで来るようだった。「クリスチャンという者はね、ストーブのような存在でなければならないよ。ストーブは暖かくて、みんな傍に寄って来たくなるでしょう」先生はよくそう言われたが、確かに先生はそのような存在であった。」(第十五章二)
「「西村先生のような人は、もう絶対に現われないだろうな。絶対に!」先日わが家を訪れた旭川二条教会会員野口哲雄氏が言った。絶対という言葉はともかく、確かに西村久蔵のような愛の人は、そうそうこの世に現われることはないであろう。その久蔵の愛は、実にその少年の日、十字架上のキリストに出会って己が罪を悔い改めた時に始まる。時任正夫氏は久蔵の死ぬ二カ月ほど前、「もうぼくにはただ一つのことしかない。キリストの十字架だけだよ」と、しみじみ語った久蔵の言葉に感銘している。然り、久蔵の生涯は、この十字架を見上げて歩んだ偉大な生涯であった。」(第十五章三)
「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」(Ⅰヨハネ3:16)