【レポート】2024年10月6日 三浦綾子文学講演礼拝

礼拝

感想

今回は、「夕あり朝あり」から信仰の歩みで大切な様々なことを学ばさせていただきました。
特に私は奇跡の体験というところが印象に残りました。本の中に出てくる高梨梅姉という方が、出刃包丁を振り回していたような人に愛を持って、洗礼を受けるまで関わり続けていたということを聞いて、相手を信じ、愛を持って関わり続ける大切さを学ばさせていただき、私は人と関わることがあまり得意ではないのですが、高梨梅姉のように愛を持って沢山の人と関わり続けるものとならせていただきたいと感じました。
また、証になる死という言葉が印象に残り、神様を真正面から見つめさせていただくことで、人間の死が証になるということを教えていただき、私も今から神様に一歩一歩聞き従うものとならせていだだき、感謝でした。

レジュメ

三浦綾子文学講座 「夕あり朝あり」②

1、天国への凱旋
「そんなこんなの幾日が過ぎて、ある朝宿の主人が亡くなってしまわれた。今正に死なんばかりの病人ではあったが、死なれた姿を見た私は、かつてないほどの衝撃を受けました。この主人が亡くなる朝、中島氏が呼ばれて、枕もとで祈りを捧げられた。中島氏の祈りの内容は、次のようなものでありました。「在天の父なる御神、この日まで今井兄を守り、導いてくださったことを感謝いたします。どうか今井兄が今までに犯した罪をおゆるしください。どうか、今井兄がすべてのことを感謝して、この宿のことも、妻君のことも、すべてを神に委ねて、安心して神の御手に憩うことができますよう、力をお与えください。もし今井兄の胸の中に、ゆるし難い人がいるならば、ゆるし得るよう寛容な心をお与えください。妻君の上にも、親戚ご一同の上にも、豊かな御慰めがありますように、イエス・キリストの御名によって祈り上げます」こう祈りますとな、宿の主人が、「ありがとう。ありがとう。感謝です。凱旋です」と言われましたな。私は、人間の死の直
前にこんな言葉を出そうとは、夢にも思いませんでした。・・・私は感激のあまり、声を上げて泣きました。軍夫ながら戦地から凱旋した私です。将兵の凱旋の様を見てきた私です。こんな小さな宿を残しただけの一生と、人は思うかもしれません。しかしこれこそが本当の凱旋だと、私は心打たれました。・・・病気が病気なので、葬式に集まる人はほんの僅かでしたが、私はすばらしい葬式であったと、これまた感動しました。そして私は、何とかして洗礼を受けたいものと、切実に願うようになったのです。」(「波打際」)
「イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。」(マルコ15:39)

2、信仰による歩み
①日々の祈り
「ところが、洗礼を受けてから、私は朝起きると先ず神に祈りました。「今日の一日を導いてください」と祈りました。何かあると神に相談した。「このことはなすべきでしょうか、なさざるべきでしょうか」と祈るようになった。・・・まあ、大したことはできませんが、大きなことをするより、小さくてもよい、目に立たなくてもよい、よき行いをしなければならない、と思うようになった。本気で神の教えに従うということが、真の意味で人さまや社会のために益となるのではないかと、考えるようになった。」(「井戸」)
「私が『主よ。私はどうしたらよいのでしょうか』と尋ねると、主は私に『起きて、ダマスコに行きなさい。あなたがするように決められていることはみな、そこで告げられる』と言われました。」(使徒22:10)
②神への信頼
「は、またもや無一文になったわけです。全く私は、よく無一文になったものですな。しかし、不思議なことに、その夜は次第に心が平安になっていった。それまでとちがって、私はキリストの神に祈ることができた。聖書には、<神は一羽の雀さえ忘れ給わぬ>と書いてある。ましてや人間の私を、神は忘れ給わぬと思って、暗い木陰で私は一心に祈った。・・・(神はどのような形で祈りを聞いてくださるか)と思って、はなはだ楽しかった。必ず祈りは聞かれるにちがいない。そう思って、喜びさえ湧いてきた。すると、この窮地におとし入れたA さえが、神の遣わしてくれた人間のように思えて、恨む思いも消えていった。」(「井戸」)
③迫害への勝利
「耶蘇の話など汚らわしい!」再び頬が鳴った。朋輩たちは、こそこそとその場を立ち去った。このあとが不思議でしたなあ。私も元来利かん気の人間ですから、やみくもに殴られては黙ってなどいない。その時はどうだったかとお思いですか。信じかねると思いますが、私の心に喜びがあふれたのです。あれが法悦というのですかな。全く怒りというものを覚えなかった。ちょうどその朝、私は使徒行伝第五章を読んだ。使徒たちが捕らえられて鞭を打たれながらも、キリストのために辱められたことを喜ぶ場面です。私はそこを感じ入って読んだばかりでしたから、宿直長に殴られて、あたかも使徒の仲間に加えられたような喜びを感じたのです。」(「袋小路」)
④奇跡の体験
「私共人間は、ともすれば、最初からこの人は信仰を持つ筈はないとか、真人間になる筈がないとか、勝手に決めてしまうところがありますな。人間そんなにちがいはないものだ、誰しも同じ罪人なのだと、理屈ではわかっているつもりでも、それがなかなかわからない。あんな人に話をしてもわからない。こんな人に何を言っても始まらないと、ま、傲慢な気持になるものですな。太田源蔵兄の、あの出刃包丁をふりまわして喚いた姿が、目に焼きついて離れない。で、集会所に来て説教を聞いている姿を見ても、驚くには驚いたものの、どうせこれ一回きりではないかと、私は思った。それが何と、やがて洗礼を受けることになった。・・・しかしですな、太田兄を立ち上らせた第一の力は、何と言っても高梨梅姉の信仰でしょうな、愛でしょうな。」(「袋小路」)
⑤伝道への思い
「しかし私は、何としてもキリストの御言葉を、もっと多くの時間をかけて伝えたかった。自分のような風来坊であった者が、生れ変った気持になって、毎日をかくも喜んで生きている。その喜びのみなもとなるキリストの神を人々に語りたかった。この思いが、私を自営の道へと駆り立てたのですな。」(「転機」)
「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(Ⅰペテロ2:9)
⑥事業における信仰
「とにかく、開業早々瀕死の重傷を負ったのは、考えれば考えるほど、大きな恵みでしたな。あれは神からの開業祝でありましたな。」(「ベンゼン・ソープ」)
「そんな中で、私は聖書の、<神もし我らの味方ならば、誰か我らに敵せんや>の言葉を読んだ。聖書の言葉というものは不思議なものですなあ。この言葉を読むや否や、いささか動揺していた私の心が、平安になった。神に祈って始めた白洋舎です。神がこの事業をなさしめた以上、必ずやお守り下さるにちがいない。そう思って、朝に夕に、この聖言を繰り返し繰り返し口ずさんだ。気力が衰えてくる時この言葉を口に出すと、たちまち力が体に満ちるのを覚えた。」(「一難去って」)
「私は、この悪辣な裏切りに、狂わんばかりの苦しみを受けた。怒った。泣いた。喚いた。お恥ずかしい話だが、全く平静を失った。が、この時、妻のぬいがぽつりと言いました。「あなた、わたしたちは、人には捨てられましたが、神には捨てられませんね」この妻の言葉に、私は、はっと我に返った。」(「挫折」)
「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(へブル13:5)

3、人生の結論
「むろん、十二人もの子供も授かった。よい妻も与えられた。よい仕事も、よい先輩も、よい従業員も与えられた。よい友も与えられた。が、それでもなお、もし信仰がなければ、自ら縊(くび)れ果てたかと思われる大きな艱難に、幾度ぶち当たったかわからない。以前にも申し上げましたかな。信仰を持つと艱難がなくなるのではなく、周囲の状況が少しも変らずとも、自分自身に艱難を乗り越える力が与えられる。そして、深い平安と感謝を与えて頂ける。そういうものだと、私はくり返し思ってきました。」(「試練」)
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)