【レポート】2024年7月14日(日) 三浦綾子文学講演礼拝

10時~ 礼拝・講演

参加者のコメント

今回の学びでは、聖書は毎日読むことで霊的な糧を得ることができ、将来の成長につながることを学ばせていただきました。聖書を読まずにわからないということと読んでわからないということは違うと知り、聖書を読む習慣をつけていきたいと思うことができました。また自分の与えられた仕事に本気になって取り組むことで目に見える恵みにつながることを教えていただき、人に見えないところでも与えられたことに本気で取り組んでいきたいと感じました。

レジュメ

三浦綾子文学講座 「ちいろば先生物語」②

1、神との交わり
①何としても必要なもの
「だが保郎は、何としても今のキリスト教界に必要なのは、神との直結、神との交わり、神との対話、すなわち祈りだと信じていた。それは、三年前の北摂山荘及び昨年有馬温泉で開催されたステンレー・ジョーンズ博士の、アシュラムによって育った願いだった。・・・スタンレー・ジョーンズ博士は、若い時から何十年間、朝の一時間を、神と人と自分の魂のために祈ることをもって一日を始めてきた祈りの人であった。一日の一番先に神を仰ぎ見、神に口を開き、神の声を聞く。そして神の言葉を読む。すなわち聖書を読むのである。・・・そのスタンレー・ジョーンズのアシュラムで参会者が学んだものは、神の前に真剣に祈るということであった。説教を聞くことが主ではなく、一人一人が聖書を通して神の言葉に聞き入り、深い瞑想の時を持ち、かつひたすら祈るのだった。」(祈りの集い)
②聖書を読む祝福
・養われ、成長する
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4:4)
「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」(Ⅰペテロ2:2)

・具体的な導きを受ける
「聖書には、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」と言われた神に、エリヤが、「彼らはわたしの命を取ろうとしています」と訴えているね。その時、神は言われた。「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」・・・ぼくは、これを正しく神が自分に語られた言葉だと思った。・・・「出て来なさい」の言葉を自分への声として聞いた以上、ぼくは神の声を聞き流すわけにはいかないのだ。」(支え)
・神の教えを受ける
「宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。」(使徒8:34、35)

2、神への奉仕
①榎本保郎
「実は、神を宣べ伝えることを生涯の使命として、ここに立っている私も、目に見えるものには実に眩惑されるのであります。・・・一人の求道者も信者も出席しないというこの事実に、私は少なからず打ちのめされたのであります。しかし、そこに神の大いなるご計画があるかも知れないということを、私は聖言を拝読しつつ思ったのであります。私共は、神の恵みを目に見ゆる形でいただきたいと願うものであります。もし今日、五人の人が出席したとしたら、私はこれを大きな恵みとして、小躍りしたにちがいありません。しかし目に見えぬ神は、往々にして、目に見えぬ恵みを与えてくださるのであります」(荒壁)
②アイバ小母さん
「<榎本先生、お元気ですか。ぼくは同志社大学の付属中学の生徒です。先日先生は、ぼくたちの学校に来てくださって、「偉い人とはどんな人か」という題で、修養会の説教をしてくれはりました。・・・「偉い人とはどんな人か」という題ですから、多分歴史上の人物か、有名な人の話だろうと、勝手に決めていました。ところが先生は、偉い人とはどんな人やと思う? とぼくたちに問いかけ、・・・世光教会の保育園のアイバ(どんな字かわかりません)という小母さんの話をしました。・・・「ぼくがこの人を偉いと思うのは、それは世光教会の便所を見てくれたらわかる。どんなに世光教会の便所がきれいか、これは見なければわからん。保育園児というのは、皆小さい子で、いくら教えられても、きれいに便所を使えへん。うんこやおしっこをすぐにひっかけてしまう。にもかかわらず、うちの便所は誰も使うてないみたいに、まっさらや。うそやと思うたら、みんなで見に来たらええ。ぼくはこの小母さんのような人が偉い人やと、皆さんに言いたい。」・・・次々と世光教会に便所を見に行く友だちが多くなりました。そしてその友だちの何かが変わっていくのを、ぼくは感じたのです。それで遂にぼくは、この間朝早く、そっと教会に行ってみました。便所を見たぼくは、電気に打たれたように思いました。「真実に生きるとは、こういうことなのや」ぼくの心の奥底にもやもやしていたものが、一度にふり払われたように思いました。ぼくは有名にならんでもええ、金持ちにならんでもええ、けど、人の心を打つような、本気の生き方をしたい、そう思いました。この次の日曜日から、ぼくも教会に行きます。先生、どうぞ、ぼくを導いてください>」(結婚記念日)

3、本当の信仰
①ゆだねる
「その夜保郎は、和子が寝入ったあとも、なかなか寝つかれなかった。肝硬変ではないかも知れないと思ってみても、肝硬変への疑いが、次第に大きくなっていくのを、いかんともしようがなかった。・・・もし、あと十年しか生きられぬとしたら、十年後には和子は、いったいどのようにして生きていくのであろう。今年るつ子は高校二年生になる。恵もてる子もまだ小学校には間がある。十年経っても親を必要とする齢だ。その子供たちを抱えて、和子は必死に生きていかねばならない。・・・保郎は心が沈んだ。が、保郎は床の上に起き上がって、祈ろうとして手を組んだ。手を組んだ途端、かつて味わったことのない平安を覚えた。(自分が死んでも、神は生きておられるやないか)そう思った途端に、明るい光を浴びたような気がした。おおよその命数を知り得たことによって、命の最後の一滴まで、生き通す覚悟ができた。」(疑惑)
「主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。」(詩篇138:8)
「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主」(ルツ2:20)

②従う
「イエスが二人の弟子に、子ろばをひいてくるように命じた場面が、ルカによる福音書に、次のように書かれている。<「向こうの村へ行きなさい。そこにはいったら、まだだれも乗ったことのないろばの子がつないであるのを見るであろう。それを解いて、引いてきなさい。もしだれかが『なぜ解くのか』と問うたら、『主人がお入り用なのです』と、そう言いなさい」>(第一九章三〇~三一)アメリカ、ブラジルからの要請は、<主がお入り用なのです>という言葉のように、保郎には思われたのだ。和子は前垂れで手を拭きながら、今、保郎が四つん這いになって上がって行った階段を、駆け上がった。・・・「なあ、あんた。一生のお願いです。ほんまに今度の伝道だけはやめにしてもらえまへんか」・・・「あんな和子、ちいろばはな、主がお入り用なのです言われたら、何も言わんと、引かれていくものなんや。・・・主は何もかも承知の上で、何かにお用いくださるんや」・・・「なあ、和子。ぼくも無理や思うんや。けどな、人間、走るべき道のりいうもんが、定まっとるんやないやろか。ぼくの命は、大事にしたところで、あとどれほども残ってはおらん。それをぼくはよう知っとんのや。主がお入り用いう言葉を聞き流して、何カ月か命を長らえるより、キリストをこの背にお乗せして、とことこ歩いているうちに死ぬほうが、ぼくにはふさわしい。本望や。」(アシュラム・センター)
「私が、『主よ。私はどうしたらよいのでしょうか?』と尋ねると、主は私に、『起きて、ダマスコに行きなさい。あなたがするように決められていることはみな、そこで告げられる』と言われました。」(使徒22:10)
「私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」(Ⅱテモテ4:6、7)