10時~ 礼拝・講演
参加者のコメント
レジュメ
三浦綾子文学講座 「ちいろば先生物語」①
1、 「ちいろば先生物語」とは
①第50番目の作品で、「週刊朝日」 (朝日新聞社)に連載された作品。
・連載 1986年1月3/10日~1987年3月17日
・単行本発行 1987年(昭和62年)5月28日(朝日新聞社)
②主題は「信仰」 「希望」「愛」
「心の飢え乾く現代におくる――牧師・榎本保郎の熱き生涯/敗戦――虚無感にうちひしがれた一人の軍国青年が、いらだち、傷つき、悩み苦しみながら、愛と信仰と希望の道を求めて生きるまで」(オビ裏)
2、「ちいろば先生物語」のメッセージ
①タイトルから
・イエスのご用とあれば、いつでもどこへでもイエスをお乗せして
「榎本保郎牧師は、自分もこの「ちいろば」でありたいと思ったのだ。自分自身は、イエスさまに乗っていただく力も資格もない小さな子ろばである。だが、イエスのご用とあれば、いつでもどこへでもイエスをお乗せして役立たせていただきたい。そうしたキリストへの謙遜と信頼を、榎本牧師は「ちいろば」なる題名にこめたのだ。」(序章)
・自らのプログラムを持たず、主の引き給う手綱のままに
「先生の著者名のごとく、その生涯は、主イエスのご用に召された『ちいろば』のそれでありました。そうして、自らのプログラムを持たず、主の引き給う手綱のままに、その馳せ場を忠実に走ったのであります」」(おわりに) ※親友林恵(さとし)氏の葬儀での説教
②登場人物から
・真淨尼
「それはなあ、保郎はん。お釈迦さんの欲しいものはな、お金でも位でもなかったんやな。この世には、それよりもなあ、もっと大事なものがある筈やと、それを探しに山に入られたんや・・・探すいうてもな、キョロキョロ探すとはちごうてな、じーっとすわって、目ぇつむって、人間の一番大事なものは何やと、考えななすったんや」 (鯉のぼり)
「おじゅっさんはなあ、お釈迦さんがお城を出なはったように、おじゅっさんも家出てきたんや。・・・つまりな、大好きなお父はんやお母はんや、きょうだいや、友だちやな、しんせきやみんなとお別れしてきたんや。その時な、八百万の神さんたちとも、すっぱりお別れしてきたんや。おじゅっさんはな、仏にだけ仕えよう思ってな」(同)
・父
「保郎、男いうもんはな、いつも人と同じことをしていれば安心というのでは、あかんのや・・・いいと思うことは、たった一人でもするもんじょ。 」(怖じみそ)
・母
「男子たる者、一旦自分で道を選んだ以上、簡単に捨ててはなりません。こうと決めた以上、死んでもよいから、やりとげなさい。」(旅順の風)
「たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」(エステル4:16)
・高崎先生
「保郎君、人間生まれて来て大事なことは、 ・・・只真理に忠実に生きることであります。」(ヤッチン)
・奥村光林
「普段奥村がキリスト教の話を始めると、保郎は、「耳の汚れや」「毛唐の信ずる神さんの話はやめとくれ」「おれは天照大神だけで、足りとるんや」などと、ずけずけ断ってきた。しかし、奥村は、性懲りもなく、「キリストさまはな、すばらしいお方や」と、話しかけてくるのだった。・・・「榎本がキリストさまを信じられるように、朝晩祈っとる」・・・(もし、キリストの神がほんとうにいるのやったら、こいつの祈りなら聞かれるかも知れん。すると、もしかしたら、おれはキリストの神を信ずるようになるかも知れん) 」(黄塵)
「 「人間はすべて罪の器やからな」・・・「罪の器? まあ、そんなしんき臭いことはどうでもええわ。とにかくおれは罪は犯さん。キリストの神さんの世話にはならん。おれの救いのことなど心配せんと、無事に生きて帰れや」「わかった。しかしな、榎本、貴様にもおれの言葉が必ず思い当たる日が来る。神よ、許してくれと、叫ぶ日が必ず来る。人間である限りはな」」(敗退)
「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)
・三木パウロ
「三木パウロは、「御子イエス・キリストが十字架にかかられたのは三十三歳の時である。わたしも、今、同じ三十三歳で命を捧げ得ることを感謝する」と述べ、最後の説教は、処刑場のその十字架の上からであった。「今、最期の時にあたって、わたくしが真実を語ろうとすることを、皆さんは信じてくださると思います。キリシタンの道のほかに、救いの道がないことをわたくしはここに断言し、証しします。わたくしは今、キリシタン宗門の教えるところに従って、太閤様をはじめ、 わたくしの処刑に関係した人々を許します。わたくしはこの人々に対して、いささかも恨みを抱いてはおりません。只々切実にねがうのは、太閤様をはじめ日本人全部が、一日も早くキリシタンになられることであります」・・・(これこそが、おれの探し求めていたものや)キリスト教なるものが、何であるかを保郎は知らない。だが、この人々の生き様死に様こそが、奉天以来探し求めていたものであるような気がした。・・・ 「おれは切支丹になる!」)(宗門)
・中村つね牧師
「 「先生、ぼくは自分勝手な奴とちがいますか」 「人間は皆、自分勝手な奴ばかりや。けどな、あんたはん自分勝手に生きたいとねがっているわけではあらへんやろ。人間として、どう生きるのが本当かと、一途に求めてきただけや。神様はな、そんなあんたはんを、きっとその個性に従って用いてくれはります。用のない人間をお造りになるほど、神様は愚かではあらしまへん」」(ミズスマシ)
・野村(榎本)和子
「<榎本さん、お便り拝見しました。正直の話、わたくしは全身から血が流れ出るような衝撃を受けました。わたくしには何も語らずにいて欲しかったと、お恨みいたしました。けれども、二度三度と読み返すうちに、榎本さんの本当のお姿が浮かんで参りました。その本当のお姿とは、イエス・キリストの十字架のあとを、真剣に従きしたがって行こうとするお姿です。人間は皆、罪深い者です。わたくしの毎日の生活も、神の前に赦しを乞わねばならぬ生活です。けれども、榎本さんのように何もかも告白する勇気は、わたくしにはありません。従順な素直な信仰がありません。いつの日か、わたくしも榎本さんのような信仰になれるかも知れません。榎本さん、わたくしのような者に、心のすべてをよくぞ打ち明けてくださいました。・・・満洲でのこと、榎本さんは榎本さんなりの、その持ち前の真正直さと熱心さとで、なさったことだと思います。わたくしはそう思い、そのことも榎本さんの大切な人生の出来事として、受けとめたく存じます。・・・追伸 大切なお手紙ですけれど、母にだけは見せました。母は、「真面目なお方や。信用できるお方や。ほんまにキリストの赦しを喜んでいるお方や」と言って、わたくしを励ましてくれました> 保郎は思わず、 ・・・畳にひれ伏して、神の名を呼んだ。その時保郎は、「子よ、汝の罪赦されたり、安らかに行け」という聖書の言葉を聞いたように思った。」 (海底電線)