【レポート】2024年4月14日(日) 三浦綾子文学講演礼拝

10時~ 礼拝・講演

参加者のコメント

今回の学びを通して、千利休がキリスト教の教えを茶の湯にどのようにして活かしたのかを詳しく学びました。教会で行われている聖餐式から取り入れた”まわし飲み”や、聖書に書かれている「狭き門から入りなさい」というところから謙って入る”にじり口”など、キリスト教の新鮮な教えに驚く千利休の姿も書かれていました。教えを柔軟に受け入れて日々の営みをより良くしていくことは、時代が変わった今の世の中にあっても大切にしていく必要があると思いました。

レジュメ

三浦綾子文学講座 「千利休とその妻たち」②

1、キリスト教の教え
①神の御計画
「「おりきさまは、父と知り合うのが遅すぎたのでござりましょう」・・・「わたくしもよくそう思ったことでした。でも、天主の御教えを聞いてからは、思いが変わりました」「思いが変わられた?」「はい。もっともよい時にお会いできたのだと思うようになりました」 「まあ!もっともよい時に?わたくしにはわかりませぬ」「おぎんさま、早くにお会いできていたならと思うのは、わたくしども人間の考えでござりましょう。でも、天主の御計画は、人間の思い計りを遥かに超えております」「と申しますと」・・・「おぎんさま、わたくしは宗易さまにお目にかかるのが遅かったばかりに、天主の御教えに反することを犯してしまいました。宗易さまの寵(おも)い者となったことが、どれほど罪深いことかを知ったわたくしは、辛うござりました。・・・おぎんさま、でも、罪深いわたくしは、その時はじめて自分の罪に気づいたのでござります。はじめは、宗易さまの寵い者になったことだけを自分の罪と思っておりました。そのほかにも自分に罪があるとは、考えることもできぬほど、わたくしは傲慢でござりました。・・・けれども、一つの罪に気づきました時に、わたくしはわたくしの中にある、もろもろの罪に気づいたのでござります。自分の弱さ、みにくさに気づいたのでござります」「なるほど、それで天主の御計らいが深いと・・・」 」 (「蝉時雨」二)
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。-主の御告げ- 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いはあなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:8、9)
②人は罪人
「神父が言ったことがあった。「人間とは罪を犯さずには生きていけぬ存在である」と。・・・(罪深いとは、一体どういうことなのであろう)・・・(姦淫してはならぬ。しかし、姦淫だけが罪なのではない。人をそしること、人を審(さば)くことも、決してそれ以下の罪なのではない。同じく大きな罪なのである)日頃の神父の言葉と説教とを思い合わせて、おぎんはそう思っていた。」(「桂川の魚籠」一)
「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」 (マタイ5:21,22)
③十字架の救い
「「ミナサン、ニンゲンハミナカクレマス。ドンナトキ、ニンゲンハカクレマスカ。ソレハ、ツミアルトキデス。ソノカクレタヒトヲ、イエズスサマハ、サガスタメニ、コノヨニキマシタ。イエズスサマガキタラ、モウカクレテイナクテモイイノデス。デテキテイイノデス。ナゼナラミナサン、ソレハ、ユルサレタカラデス。スベテガアタラシクナッタカラデス。ツミガナクナッタカラデス。ミナサンノツミハ、イエズスサマガ、カワッテセオッテクダサッタカラデス」 司祭は背後の十字架を指して言い、「ミナサン、ワタシタチハ、ジブンノチカラデカミサマニチカヅクコトハデキマセン。デモカミサマハ、ジブンカラチカヅイテキテクレマシタ。モウカクレテイナクテモイイノデス。デテキナサイ。アンシンシナサイ。サア、イエズスサマヲシンライシ、ココロカラカンシャシマショウ」 ・・・司祭の顔は喜びにあふれていた。 」 (「サンチョの聖堂」二)
「悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。」
(ヨハネ3:20)
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(Ⅱコリント5:21)

2、茶の湯
①ミサ(聖餐式)
「 「あの司祭の飲んだのはブトー酒じゃな」・・・「さようでござります。イエズスさまの十字架で流された血潮を記念してのブドー酒にござります」「何?血潮を記念して?」「はい、昔はあの一つの盃から、多くの者がひと口ずつ、順にまわし飲みをしたげにござります」「何?まわし飲みとな」宗易の目裏(まなうら)に、一つの盃から一口ずつブドー酒を飲む信者たちの姿が浮かんだ。・・・ それこそは、肉親の情よりももっと堅い信義の結びつきを思わせる姿でもあった。(茶の湯にも・・・)そのまわし飲みが使えぬものかと、宗易は思った。茶の湯の世界こそ、客も亭主も、心をひとつに解け合わさねばならぬ世界である。ここには主も従もない。信長も自分も、共に一つの茶碗から茶をすする。その様を胸に描いて、宗易の心はふるえるのを覚えた。それは新しい、余りにも新しい茶の湯の姿であった。」(「サンチョの聖堂」二)
②にじり口
「「はい。今日のお話は、わたくしには身に沁みましてござりました」「ほう、どんな話じゃ」「はい。狭き門より入れ、と言うお話でござりました」「何!?狭き門より入れとな」・・・ 「天国に入りますためには、只信仰を抱いたわが身ひとつで入らねばなりませぬ。しかも、へりくだった思いをもって、頭を低く下げ、わたくしには誇るべき何物も持ってはおりませぬと言う者のみが、天国に入るのだと申されました」「ふーん」宗易は、何一つ持たぬ人間が、頭を低くして門をくぐる様を胸に描いた。「なるほど!」突如、宗易の顔に喜びの色がみなぎった。 ・・・「おりき! そなたの手柄じゃ。茶室に入る者は、大名といえど、天下人といえど、一様にへりくだらねばならぬ。天国に入るのと同じ心じゃ。先ず茶室の前に坐って、茶室に入る心を整える。そしてそなたが今したように、すべての者が膝をにじって入るのじゃ。この心がなければ、真の茶の湯は成り立たぬ。」語る宗易の言葉に、深い感動があふれていた。」(「妙喜庵」二)
③人への尊敬
「宗二。亭主となることはの、つまり客の下に立つことじゃ。客を名人と心得よ。いかなる客をもの。そしてまたこれが、客人の心得でもある」」(「金の茶室」一)
「互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」(ピリピ2:3)

3、人間としての生き方
①主に信頼する
「人間は赤子のように、力のないものでござります。赤子が母のふところにいるのが一番の平安であるように、わたくしたちは只、天主のふところにお縋(すが)りすればよいのでございます」(「雷鳴」一)
②人のために祈る
「七十歳とは見えぬ白い腹の左に、利休は作法どおり脇差しをぐいと突き刺した。そして、その脇差しを右にまわして引きぬくや、「利休が血にて茶道を清めようぞ!」と、血の滴る腸をつかみ出し、自在鉤に引きかけた。息をのむ凄絶な最期であった。茶室の隣で、おりきはひたすら祈りつづけていた。利休が平安のうちに、誰をも恨むことなく、生涯を閉じることのできるようにと天主に祈っていた。 」(「雷鳴」二)
③自分のために祈る
「おりきは黙って石田三成の顔を見た。 ・・・おりきは利休の最期を思った。憎んではならぬと思った。・・・おりきは心のうちに、(天主よ。すべての人をゆるし、いつくしむ力を与え給え)と、祈った。」(同)
④ゴールを覚える
「かくて天正十九年、類稀なる夫婦(みょうと)千利休とおりきの姿はこの世から消えたのである。」(同)
「けれども、私たちの国籍は天にあります。」(ピリピ3:20)
「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。 ・・・事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」 (ヘブル11:16)