10時~ 礼拝・講演
参加者のコメント
レジュメ
三浦綾子文学講座 「海嶺(中) 」
1、人間とは
①酋長、マカハ族(一般の価値観)
「こいつは俺の大事な財産だ。」(「鞭」一)
「マカハの人々は、自分の所有地に流れ着いた物は、すべて自分の所有とした。高潮によって打ち上げられる海藻も流木も、そして今朝打ち上げられた岩松たちも、マカハ族にとってはすべて同じ「物」であった。」(「フラッタリー岬」一)
「だが岩松も久吉も知らなかった。奴隷という地位がどんなものか。いかなる待遇を受けるものか。それらのことを全く知らなかった。この部族は、酋長が死ぬと、その最も気に入られていた奴隷が斬殺され、共に埋葬された。また、多くの客人を招いて宴を張る時、時折主人は、何の罪もない奴隷の首を、客人の前に刎ねることがあった。奴隷は財産である。その奴隷を殺すということは、奴隷の一人や二人失っても惜しくはないほどに、財産があるという誇示であった。こんな災難が、いつ自分たちの身の上にふりかかるかを、むろん岩松も久吉も知る筈はない。」 (同)
②マクネイル船長、マクラフリン博士(聖書の価値観)
「「いや、それとこれとはちがう。オトはわしの貴重な財産だ。いや、宝だ。誰にも渡すわけにはいかん」酋長はあくまで言い張った。が、船長は喰い下がった。「酋長、あのオトのために、わたしたちはどんな代価を払ってもいい。この間も言ったように、三人の救出に、全力を尽くせとマクラフリン博士から厳命を受けている」」(「二本マスト」三)
「神は人をご自身のかたちとして創造された。」(創世記1:27)
「キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。」(Ⅰコリント8:11)
2、手紙が示すもの
「岩松は再び筆を固く握りしめて書いて行く。<必ず必ず日本に帰りたし 助けて下され 疾く疾く助けて下され 天保五年一月五日 岩松書く> 書き上げた書状を岩松は読み返した。これをバンクーバー島から来る男に渡そうと岩松は思った。そうすれば、この書状は誰かの目にふれる。誰かはまた誰かに手渡してくれるにちがいない。この字が人に読めるかどうかは、岩松には問題ではなかった。自分のひたすらな願いが通じない筈はないと、岩松は確信に満ちて、危険を顧みずに書いたのだ。」(「鞭」二)
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)
「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」(エレミヤ33:3)
3、迷える羊とキリスト
①迷える羊を救うキリスト
「一人の教師は更に、箱についていた幕を引いた。背景に峻しい崖の絵が書かれてある。その崖下に一匹の羊がいた。人形芝居である。教師が、その羊を器用に動かしながら、羊の鳴き声を真似た。羊は、峻しい坂を鳴きながらよじ登ろうとする。だが羊は、上りかけては、すぐに谷底にころげ落ちる。教師は、「かわいそうな羊、この羊は大勢の仲間から外れました。仲間は九十九匹いるのです。この迷い出た羊を入れると、羊は全部で百匹でした」ゆっくりと、子供たちにわかるように教師は話していく。羊は悲しそうに鳴く。やが
て、遠くから羊を呼ぶ声が聞こえてくる。羊はその声を聞いて大きな声で鳴く。鳴き声を聞きつけて、峻しい崖を一人の人が降りて行く。「この人の名は、イエス・キリストです」と教師が言った。 」 (「迷える羊」二)
「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(Ⅰペテロ2:25)
②迷える羊のために死なれるキリスト
「これで話は終わりかと思ったが、そうではなかった。場面は全く変わって、教師が、「ここはゴルゴタの丘です」と、重々しい声で言った。十字架が立てられ、先程のキリストに扮した人形が、十字架につけられようとしている。その掌に釘を打つ音がする。先程の、羊を助けた人形の掌に大きな釘が打ちこまれるのだ。
「うわあ、痛い!」久吉が叫んだので、子供たちが一斉にうしろを向いた。もう一方の掌に、また釘が打たれる。「残酷やーっ!」久吉がまた叫ぶ。子供たちが再びふり返る。十字架にかかったキリストの下に羊がやってくる。何人かの人形が十字架の下に集まって来た。「イエスさまーっ! わたしを助けてくださったやさしい方なのに、どうして十字架につけられたのですか」羊が十字架を見上げて歎く。子供たちが大きくうなずく。教師が語る。「皆さん、どうしてキリストは十字架にかかられたのでしょう。悪いことをしたからでしょうか。いいえ、私たち人間の罪や穢れを取り除くために、イエスさまは身代わりになってくださったのです」( 「迷える羊」二)
「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちすべての咎を彼に負わせた。」(イザヤ53:6)
③キリストの型
「ヘイ・アイブは、アー・ダンクのもとを出てから、人々の前に姿を見せなかった。ピーコーが発つ時でさえ、ヘイ・アイブは自分の家の戸口に立って、ひそかに見送っただけである。そのヘイ・アイブが大声で叫んだのだ。「オトを帰して上げて!」酋長は驚いて、目の前に立ったヘイ・アイブを見た。「酋長! わたしは、もう一度アー・ダンクのもとに帰ります。もしこのオトを、一緒に帰して上げるなら」」(「二本マスト」三)
「「ところでお前は、なぜ逃げなかった? サム」逃げるという言葉が、幾度も岩吉の耳に入った。「親父と離れるのが、辛いからさ」「まさか」「ほんとうさ、親父。第一俺が逃げてみろ。一番仲のよかった親父が、罰を食う」「・・・」「親父が鞭打たれるのが目に見えている。だから俺は逃げなかった」「サム・・・俺はなあ、お前のためなら、鞭打たれたって、かまわないんだぜ」「親父」の声がやさしかった。「それは知ってるぜ。親父って男は、そんな男だ。だから俺でさえ、親父には黙って蹤いて行く」「・・・」「親父、ありがとう。俺のために鞭打たれてもかまわないってえ人間が、一人でもいる。それで俺は充分さ」・・・岩吉は二人の会話に心を打たれた。・・・(サムの言うとおりだ)自分のために鞭打たれてもかまわぬと言う人間が一人でもあれば、それだけで人間は喜んで生きて行けるような気がした。」(「椰子の木の下」七)
4、必ず幸せになります
「「すべてはよくなります。必ず幸せになります」と、ロビンソン・クルーソーはオームに教えたことにした。このロビンソンは、朝夕聖書を読み、三冊の聖書をぼろぼろにするほどに読んだ。そして神に感謝の祈りを捧げることを忘れなかった。これがロビンソンを支える力となった。このことをマッカーデーは心をこめて感動的に話した。」(「南海」四)
「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」(ローマ15:4)
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)
「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:18)