【レポート】2023年7月23日(日) 三浦綾子文学講演礼拝

10時~ 礼拝・講演

今回はリモートではなく、

長谷川与志充先生が仙台聖泉一本杉キリスト教会に来られ、講演をしてくださいました。

参加者のコメント

登場人物の陽子が語ったことばに「相手より自分が正しいとする時、果たして人間はあたたかな思いやりを持てるものだろうか。自分を正しいと思うことによって、いつしか人を見下げる冷たさが、心の中に育ってきたのではないか」とあり、心探られる思いでした。

レジュメ

続氷点

1、登場人物からのメッセージ(続き)

①牧師  特別に教えられる存在である。

  「背広姿の牧師が、テーブルの前に立った。まだ三十をいくつも超えていない若さに、啓造は少し心もとない感じがした。信者たちの中には、うしろから見ても、明らかに六十代、七十代と思われる年配の人が二、三人いた。こんな人生経験を経てきた人々までが、この若い牧師の話に耳を傾けるのかと、啓造は驚きを感じた。「今日のテキストを読んで、皆さんは、自分がどちらの人間だと思いましたか。わたしならこのパリサイ人のような傲慢な祈りはしないと思いましたか」人々は顔を見合わせ、声に出して笑った。牧師も笑った。が、啓造はまだ笑えるほどに、教会の雰囲気にとけこむことはできなかった。笑えない自分だけが、一人その圏外にあるような気がした。「・・・自分は正しいと思いたい思い、人間にとってこれほど根強い思いはないと思います」牧師は啓造を見た。啓造は一瞬ヒヤリとした。澄んで美しい目だ。しかし鋭い目の光だった。啓造は何か心を見透かされたような気がした。が、視線が合って、はじめて啓造の気持は落ち着いたようであった。」(「奏楽」)

 ②恵子  憎むべき人こそ「恵みの子」である。自己変革と真の幸福に導かれる。

  「確たる生き方をつかまなければ、本当の意味の幸せにはなれないと陽子は思った。生きる方向は、既に順子によって示されてはいる。しかしまだ、陽子の生活は根本的に変ってはいない。自分の精神生活が根本的に変化した時に、恵子への憎しみも解決するはずなのだ。」(「追跡」)

 ③弥吉

  a)許し得る道を示す

  「既に二十年前に、三井弥吉は妻の裏切りを知っていたのだ。知りながら許していたのだ。なぜ許し得たのか。それは、妻を責める資格が自分にはないという、罪の自覚によるものではないか」(「燃える流氷」)

  「イエスは・・・言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に石を投げなさい。」・・・彼らはそれを聞くと、年長者から始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。」(ヨハネ8:7、9)

  b)戦争の問題を示す   先の大戦は日本人にとっての「原罪」

  「辻口様、あるいはあなたもあの忌わしい戦争で、戦地に行かれた一人かも知れません。私はいま、忌わしい戦争と書きましたが、実に戦争ほど、恐ろしく忌わしいものは、この世にありません。戦争の恐ろしさは、食糧が乏しくなること、空襲で家が焼け、女子供や老人さえも焼き殺されること、ただそれだけではありません。それよりも何よりも恐ろしいのは、人間が人間ではなくなることではないかと思います。私は誰にもいうことのできなかった自分の犯した罪を、二十幾年経て、やっと妻に告白しました。それをいま、私はあなたがた御夫妻にも聞いて頂きたいのです。辻口様、私たちの小隊は、北支のある部落で、老人や子供や女をひとところに集めて、虐殺することを命ぜられたのです。・・・上官の命令は絶対です。私は自分の背に銃をつきつけられているのを感じて、無我夢中で女の腹を裂いたのです。ギャッと叫んだ悲鳴と、血まみれの胎児がひくひくと動いていたことを忘れることはできません。・・・私が真の男ならば、人間ならば、あの時銃殺されようとも、あの罪のない人々をかばうべきでした。しかし私のこの手は、かの妊婦を殺してしまったのです。・・・私は、私と同様に妻にもいえぬ戦場での罪悪に悩まされた戦友たちを知っています。平和に見えるこの日本の中に、こんな忌まわしい戦争の過去におびえて生きて来た男が、いまなおどれほどいるかわかりません。」(「燃える流氷」)

  「殺してはならない。」(出エジプト20:13)

  「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(マタイ22:39)

2、罪のゆるしについて

 ①流氷  原罪を示す。 「氷点」(罪の可能性) → 「流氷」(罪の現実性)

  「眼下に、網走の港が見え、オホーツク海が大きく広がっていた。この高台から眺めても、流氷は沖の彼方までつづいていた。あの沖の彼方のその彼方まで、海は氷の下に閉ざされているのだろう。・・・「いろいろ変化するのね、流氷も」・・・「そりゃあ変りますよ。いまはこんなに、びっしり沖までつづいているでしょう。ところが、明日目をさましたら、全部沖に去って跡かたもなくなることだって、あるんですからね。気まぐれ女の心変りみたいなものですよ」・・・「じゃ、流氷の来る時も同じですか」「そうですよ。いやに今夜は寒いなと思っていたら、明けて一面びっしりですよ」」(「燃える流氷」)

  「陽子はふと、目の前の氷原を、恵子がうつむきながら遠ざかっていくような錯覚をおぼえた。うつむいたまま、雪道を去って行った恵子は、泣いていたのかもしれない。「あなたがたの中で、罪のない者が、まず石を投げうちなさい」と聖書はいう。陽子は蒼ざめた流氷原を凝視した。この流氷のように、自分の心は冷えていたのだろうか。自分はもっと暖かい人間のはずだった。もっと素直な人間のはずだった。その自分が、一言も発しなかったのだ。自分でも不可解な心情だった。不可解だが、まさしく自分の心は、この海のように冷たく閉ざされていたのかも知れない。「陽子さん、ゆるして・・・」その一言に万感の思いがこめられていたはずである。しかし陽子は、素気なくその場を立ち去ったのだ。それは、石を投げ打つよりも冷酷な仕打ちではなかったか。そのような非情さが、一瞬に生ずるはずはない。自分の心の底には、いつからかそれはひそんでいたのだ。陽子は、小学一年生の時、夏枝に首をしめられたことがあった。中学の卒業式には、用意した答辞を白紙にすりかえられた。そのことを、陽子は決して人には告げなかった。ただひたすら、石にかじりついてもひねくれまい、母のような女になるまいと思って、生きてきた。が、それは常に、自分を母より正しいとすることであった。相手より自分が正しいとする時、果して人間はあたたかな思いやりを持てるものだろうか。自分を正しいと思うことによって、いつしか人を見下げる冷たさが、心の中に育ってきたのではないか。(原罪!)・・・hhようやく、自分の心の底にひそむ醜さが、きびしい大氷原を前にして、はじめてわかったような気がした。」(同)

 ②燃える流氷   キリストの十字架の血潮による罪のゆるしと心の変化を示す。

  「次の瞬間だった。突如、ぽとりと血を滴らせたような真紅に流氷の一点が滲んだ。あるいは、氷原の底から、真紅の血が滲み出たといってよかった。それは、あまりにも思いがけない情景だった。・・・陽子は息をつめて、この不思議な事実を凝視した。やがて、その紅の色は、ぽとり、ぽとりと、サモンピンクに染められた氷原の上に、右から左へと同じ間隔を置いてふえて行く。と、その血にも似た紅が、火焔のようにめらめらと燃えはじめた。(流氷が! 流氷が燃える!)・・・じっと、そのゆらぐ焔をみつめる自分の心に、ふしぎな光が一筋、さしこむのを陽子は感じた。またしても、ぽとりと、血の滴るように流氷が滲んで行く。(天からの血!)そう思った瞬間、陽子は、キリストが十字架に流されたという血潮を、今目の前に見せられているような、深い感動を覚えた。」(「燃える流氷」)

  「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(Ⅰヨハネ1:7)

 ③新しい世界

「陽子は、北原に、徹に、啓造に、夏枝に、そして順子に、いま見た燃える流氷の、おどろくべき光景を告げたかった。自分の前に、思ってもみなかった、全く新しい世界が展かれたことを告げたかった。そして、自分がこの世で最も罪深いと心から感じた時、ふしぎな安らかさを与えられることの、ふしぎさも告げたかった。・・・何よりも先に、なさねばならぬことがあった。交換手が出た。陽子は、小樽の三井弥吉の電話番号を調べて、とりついでもらうことにした。・・・(おかあさん! ごめんなさい)あの雪道をうつむいたまま去って行った恵子の背に、呼びかけるような思いだった。」(「燃える流氷」)

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)