10時~ 礼拝・講演
参加者のコメント
レジュメ
「続氷点」①
1、続氷点とは
①朝日新聞の「一千万円懸賞小説」に入選し、一大ブームを巻き起こした三浦綾子の処女作にして代表作である「氷点」の続編
・執筆のきっかけ 「氷点」の連載が終わった頃、周囲から「続も書いては・・・」という声が上がった。
「氷点」の後に朝日新聞に連載された「積木の箱」の連載終了の頃に朝日新聞東京本社学芸部から連載の話が出された。
・新聞連載 1970年5月12日~1971年5月10日
・単行本発行 1971年(昭和46年)5月25日
②主題は「赦し」
「「氷点」のテーマは原罪であったが、「続氷点」のテーマは「赦し」ということにしていた。構想は意外に早くまとまったが、全篇を受けての最後は少し重いものにしなければならない。できれば私は、ヒロインの陽子を、オホーツク海に押し寄せる流氷の前に佇たせたかった。」(「命ある限り」第8章2より)
2、罪について
①自分の中の罪の可能性
「陽子は自分さえ正しければ、悪口をいわれようと、意地悪をされようと、胸を張って生きていける強い人間だったと、書いていた。なぜならそれは、自分の内部の問題ではなく、外側のことだったからだとも、書いてあった。確かに陽子はそんなふうに生きていたと、啓造も思う。しかし陽子は、殺人犯の娘であると、夏枝に罵られたことがきっかけで、自分の中にも罪の可能性があることを見出したのだ。・・・多分、今の陽子の中を占めているものは、この罪の問題にちがいない。陽子は、その罪の問題に取組んで、一人悩みつづけているにちがいないのだ。それが解決しない限り、元の陽子はもどって来ないのではないか。」」
(「辰子の家」)
②人を責める
「それは高木にいわれたとおり「運転手に酒を飲ませるより、もっと危険なこと」だった。それをあえてしたのは何か。自分の心の中に巣喰っている、人を責める思いではないか。夏枝を責め、啓造を責めて来た思いが、恵子をも責めずにはいられなかったのだ。」(「草むら」)
③日常茶飯事に犯すもの
「「ある人がね、牧師にわたしには罪はない。なぜキリスト教は人間をすべて、頭から罪人扱いにするのか。それは一体どういうことなのだ、と詰めよったそうだ。するとね、その牧師が、じゃ君、あの大きな石をここまで持って来てくれないか、と庭の石を指さした。その男は、漬物石の倍もあるその大きな石を、よいこらしょと、運んで来た」・・・牧師はさらに、その大きな石と同量ほどの小石を持って来るようにいった。男が、小石をたくさん集めて持って行くと、牧師は、今度はそれらの石を、元の場所にもどすようにといった。男は困った。大きな石だけは、どこから運んで来たか、はっきり覚えている。だが、たくさんの小石は、どこにどの石があったか、わかるわけはない。小石は一つも元にもどせなかった。・・・「おもしろいだろう。つまり、人を殺した、強盗に入った。これが吾々には大きな石なんだね。しかし、うそをいった、腹を立てた、憎んだ、悪口をいった、などという日常茶飯事は小石なんだな。つまり、ひとには始末のつけようがないんだね」」(「あじさい」)
④不自由
「実に、人間には仕方のないことが多いと、啓造は思った。好きになるまいとしても、好きになる。嫌いになるまいとしても、嫌いになる。恨むまいとしても、恨みを抱く。金に執着してはならないと思っても、執着する。排他的になるまいとしても、人を押しのける。正しく歩もうとしても、曲ってしまう。卑劣になるまいとしても、卑劣になる。・・・「人間って、自分の思いどおりにならない、不自由な存在だね」・・・「・・・とにかく不自由ということは、人間本来の姿ではないんだろうね。まあ、罪人の証拠といえるかも知れないね」」(「夜の顔」)
「すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:22~24)
3、人生について
①希望がある
「「わたし、やっぱり傲慢だったのね、おとうさん。自分のことは、自分で知っているつもりだったの。でも、何もわかっていないのね。親切なつもりの自分に、意地悪の自分がひそんでいるかも知れないなんて、思っただけでもこわいわ」・・・「陽子、そう恐ろしがることはないよ。自分の中に未知数があるということは、同時に希望の持てることでもあるからね」「希望?」」(「延齢草」)
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
(エレミヤ29:11)
②幸福の可能性がある
「「でも、本当の人間の幸福って、結局は自分自身の内部の問題だと思うの」・・・「それはそうね。生きる意義というか、目的というか、それがつかめないうちは、空虚よね。虚無的よね。虚無とは満たされていない状態ですもの、幸福感がないのは当然よ」・・・「・・・ね、陽子さん、わたしね、幸福が人間の内面の問題だとしたら、どんな事情のある人にも、幸福の可能性はあると思うの」」(「交差点」)
「「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思
いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あな
たの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」」
(マタイ22:36~39)
③自分一人ぐらいと思ってはいけない
「自分一人ぐらいと思ってはいけない。その一人ぐらいと思っている自分に、たくさんの人がかかわっている。ある一人がでたらめに生きると、その人間の一生に出会うすべての人が不快になったり、迷惑をこうむったりするのだ。そして不幸にもなるのだ」(「たそがれ」)
「すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」(ローマ5:19)
④生きる方向
「・・・陽子はいま、徐々に自分の生きる方向が変わっているのを感じます。特に今日、おじいさんのおっしゃった次の言葉には、はっと目をさまされたような気がしました。「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである」ジェラール・シャンドリという人のいったこの言葉が、なぜかしきりに頭に浮かぶと、おじいさんはおっしゃるのです。・・・「おもしろいものだね。あくせくして集めた金や財産は、誰の心にも残らない。しかしかくれた施し、真実な忠告、あたたかい励ましの言葉などは、いつまでも残るのだね」」(「たそがれ」)
「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒20:35)