【レポート】2023年4月16日(日) 三浦綾子文学講演礼拝

10時~ 礼拝・講演

参加者のコメント

今回、3回シリーズの「氷点」最終回に参加させていただき、この小説に込められている多くのメッセージと奥深さというものを感じさせていただきました。
更に読み進めて行きたいと思わされました。
次のシリーズ「続・氷点」も楽しみです。

レジュメ

「氷点」

1、原罪に気づいた人間の姿

 ①罪の自覚

  「今まで、どんなにつらい時でも、じっと耐えることができましたのは、自分は決して悪くはないのだ、自分は正しいのだ、無垢なのだという思いに支えられていたからでした。でも、殺人者の娘であると知った今、私は私のよって立つ所を失いました。現実に、私は人を殺したことはありません。しかし法にふれる罪こそ犯しませんでしたが、考えてみますと、父が殺人を犯したということは、私にもその可能性があることなのでした。自分さえ正しければ、私はたとえ貧しかろうと、人に悪口を言われようと、意地悪くいじめられようと、胸をはって生きて行ける強い人間でした。何故なら、それは自分のソトのことですから。しかし、自分の中の罪の可能性を見出した私は、生きる望みを失いました。どんな時でもいじけることのなかった私。陽子という名のように、この世の光の如く明るく生きようとした私は、おかあさんからごらんになると、腹の立つほどふてぶてしい人間だったことでしょう。けれども、いま陽子は思います。一途に精いっぱい生きて来た陽子の心にも、氷点があったのだということを。私の心は凍えてしまいました。陽子の氷点は、「お前は罪人の子だ」というところにあったのです。私はもう、人の前に顔を上げることができません。・・・私はもう生きる力がなくなりました。凍えてしまったのです。 」(遺書)

  「「陽子には殺人犯の血が流れている」との母の言葉が耳の中で鳴っています。この言葉は、私を雷のようにうちました。私の中に眠っていたものが、忽然と目をさましました。それは今まで、一度も思っても見なかった、自分の罪の深さです。一度めざめたこの思いは、猛然と私自身に打ちかかって来るのです。「お前は罪ある者だ、お前は罪あるものだ」と、容赦なく私を責めたてるのです。北原さん、今はもう、私が誰の娘であるかということは問題ではありません。たとえ、殺人犯の娘でないとしても、父方の親、またその親、母方の親、そのまた親とたぐっていけば、悪いことをした人が一人や二人必ずいることでしょう。自分の中に一滴の悪も見たくなかった生意気な私は、罪ある者であるという事実に耐えて生きては行けなくなったのです。私はいやです。自分のみにくさを少しでも認めるのがいやなのです。みにくい自分がいやなのです。けれども、既に私は自分の中に罪を見てしまいました。」(同)

  「(人間同士は心の底まで見とおすことはできないからな。これがもし、神の前だったら・・・)・・・(・・・おれは犯した罪のことを問題にしているが、陽子は罪の根本について悩んだのだ。姦通によって生まれたということを知っても、苦しむだろうし、何の問題もなく育っても、同じように苦しむ人間なのかもしれない) 啓造は、自分がそこまで悩んだことがないことに気づいた。」(ねむり)

  ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」(詩篇51:5)

  「私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。」(ローマ7:14)

  「ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り・・・」(ローマ5:12)

 ②ゆるしの渇望

「私は今まで、こんなに人にゆるしてほしいと思ったことはありませんでした。けれども、今、「ゆるし」がほしいのです。おとうさまに、おかあさまに、世界のすべての人人に。私の血の中を流れる罪を、ハッキリと「ゆるす」と言ってくれる権威あるものがほしいのです。 」(同)  

「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」(マタイ9:2)

「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(へブル9:22)

「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(Ⅰヨハネ1:7)

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(コリント5:21)

2、変えられた人間の姿

洞爺丸台風の場面に登場する宣教師の姿に見られる。この宣教師は1954年(昭和29年)9月26日に洞爺丸に実際に乗船していた2人のアメリカ人宣教師(ディーン・リーパー(YMCA)、アルフレッド・ストーン(メソジスト))がモデルであるが、この2人は自分の救命胴衣を日本人に譲って死んで行った。この場面は入選原稿にはなかったが、光世氏の勧めによって新聞連載原稿に書き加えられたものである。

   ①相手に関わって行く。     「ドーシマシタ?」

   ②相手に同情(共感)する    「ソレハコマリマシタネ」

   ③相手に実際的な助けを与える  「ワタシノヲアゲマス」

   ④相手の長所(賜物)を示す。  「アナタハ、ワタシヨリワカイ」

   ⑤相手に人生の使命を与える   「ニッポンハワカイヒトガ、ツクリアゲルノデス」

  「あの胃けいれんの女に、自分自身の救命具をやった宣教師のことを、啓造はベッドの上で幾度も思い出したことだった。啓造には決してできないことをやったあの宣教師には生きていてほしかった。あの宣教師の生命を受けついで生きることは、啓造には不可能に思われた。あの宣教師がみつめて生きてきたものと、自分がみつめて生きてきたものとは、全くちがっているにちがいなかった。」(「台風」)

  「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイ4:19)

  「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座に着座されました。」

                                        (へブル12:2)

  「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。・・・私たちはみな・・・栄光から栄光へと主と同じ形に姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

(Ⅱコリント3:16、18)

3、救いを与えるもの

 ①名前から 「辻口」=「十」字架への「道」の入「口」

       「啓造」=「啓」示によって新しく「造」られる

       「陽子」=神の「陽」(光)によって照らされた「子」

 ②本文から

  a)聖書  「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)

   「(憎んだり、ねたんだり、愛したり、怒ったり、これが生きるということだろうか)机の上の聖書を啓造は手にとった。(この本は、本当におれに新しい生き方を教えてくれるだろうか)教えてくれるような気がした。」(「階段」)

  b)クリスチャン  「あなたがたは、世界の光です。」(マタイ5:14)

   「洞爺丸台風の時、自分の救命具を若い女性に与えて、死んだ宣教師のことを啓造は思った。(あの人のように、おれは生きたいのだ)この目でたしかに見たあの尊い生き方を、なぜ自分は真似ようとも、求めようともせずに十年近くも、だらだらと生きてきたのかと啓造は思った。」(同)

  c)教会  「教会は、真理の柱また土台です。」(Ⅰテモテ3:15)

   「(思いきって教会に行こうか。教会に行って、こんな愚かな醜い自分でも、なお真実に生きて行くことができるか牧師にきいてみようか)・・・(とにかく行ってみることだ)・・・啓造は説教の題名<なくてはならぬもの>に心をひかれた。・・・(なくてはならぬものとは何だろう? おれにとって、なくてはならぬものとは何だろう)啓造は十字架を見上げた。」(同)